事故物件(前編)
事故物件とやらをマッピングしたものまであるそうじゃないか。
何に使うんだそれ。
1.
また――
跫音がする。
ひたひたと廊下を歩き回り、何かを探すかのように徘徊している。
つん、と独特の臭気が満ちた気がする。
年寄りの――老人のような独特の臭い。
勘弁してくれ――
私は布団を被り、知りもしない念仏のワンフレーズを繰り返した。
仕事の疲れも残ったままだというのに――
今夜も私は――眠れそうになかった。
2.
医者を生業とするものには、それ相応の領分がある。
しかし――
町医者である赤城陽山は、腕組みしたまましばし瞑目していた。
しかしこれは――医者の領分ではないだろ。
目を細めに開くと、薬棚に収められた生薬が見えた。
薬箱の整理もしなければならぬ。
置きっぱなしの薬研も、片付けなければ――
そうだ、こんなことを考えるのが私の領分だ。
目の前には、一人の男が項垂れたまま座っている。
男の言い分を要約すると――
家に取り憑いた病を治せないか、というものだった。
3.
私がその、麻婆豆腐に水をかけて不味くしてしまったような名前の占い屋に入ったのは6月の雨が降る日の午後のことだった。
奥の机の前に座る店主は――
いつも通り万象一切が面白くないような顔をしている。
だが――長いつきあいで判る。
今日の店主は――何やら困っているようだ。
この男が困っている所など、滅多に見られるものではない。
私は――大きな声では言えないが、少しだけ愉快な気持ちになった。
どうした木下、何か困りごとか――
そう声をかけながら椅子に腰を下ろすと、友人はじろりとこちらを睨む。
君の方は――随分愉しそうで何よりだよ。
私の愉悦は、あっさり見破られたようだ。
いや違うんだ木下、その――難しそうな顔してたからな――
そう弁解すると、友人は笹目、と短く返す。
そうだった――
この男、本名は木下定男という平凡な名前の持ち主だが、占い師としては笹目天元という、まあ中二だか何だかを煮詰めて拗らせて焼き上げたような大層な名を名乗っている。
のみならず――店内ではその名で呼ばぬと機嫌を損ねるのだ。
面倒くさい男である。
まあ、困りごとというか――自業自得なんだがな――
そう言って、天元は明瞭と困った顔になった。
私は――これは面白そうなことになったと――
その時は思っていた。
4.
一昨日の膾が良くなかったのだな――
腹を押さえながら、八坂兵十郎はそう言った。
さすがの北町同心殿も、腹痛には勝てませんな――
陽山は生薬を調合しながら笑った。
どうやらそのようです――
しかし、陽山先生も――
何やら浮かない顔をしてらっしゃいますな。
顔をしかめた兵十郎に指摘され、陽山は思わず苦笑交じりに嘆息する。
やはり、判りますか。
実はその、領分外のことであるのですが――
子石川の療養所には、様々な身分の者が陽山をはじめとする医者のもとを訪れた。
兵十郎のように腹痛を訴える者もいれば、胸の痛み喉の痛み咳に咳と――基本的には内道が陽山の領分と言える。
切り傷打ち身刀傷といった外道となると多少の心得しかない。
だが――
先日陽山の元を訪れた男が訴える症状は――内道とも外道とも異なっていた。
家が――病に罹っておるようでして――
それは――家が傷んでいるとか、普請の話、ということですかな。
兵十郎はそう問うたが、陽山は首を振る。
そうではなくて、何と言えばいいですかなぁ、その、家によくないモノが居ると――概ねそういう意味だと、私は解釈したのですがな――
陽山がそう言うと、兵十郎はああ、という顔をした。
要は――祟りであるとか、霊障であるとか――世迷言の類ですか。
いや、しかし先生、それは――
放っておくわけにもいきますまい――
兵十郎がそう言ったので、陽山は少しばかり驚いた。
しかし八坂殿、私は医者ですぞ。
祓い給え清め給えは――神社仏閣の領分ではありませぬかな。
それに第一、そのような妄言を真に受けられるとは、八坂殿らしくもない――
いや、それは先生の仰せのとおりです。
いくら真に迫ろうと、妄言は妄言。
いずれ――世迷い言です。
しかし先生、世迷い言を世迷い言のままにしておくと――
碌な事になりはしませんぞ――
そう言いながら兵十郎は、先月起きた奇妙な事件のことを思い出していた。
世迷い言と一笑に付されそうな噂によって――
一人の男が破滅した。
それに留まらず、その噂は――兵十郎の見立てでは後世にまで続く禍根を残しているはずだ。
ですから先生、世の中には――
そういうこともあるのです――
兵十郎は、腹の痛みも忘れてそう言った。
5.
その客――兵藤さんというんだがな、とある会社の課長さんだ。
で、最近単身赴任で引っ越されたそうなんだ。
その方が言うには、引っ越し先の家――
賃貸なんだが――
そこが事故物件なんだそうだ。
妙なのが流行るなぁ――
天元は目頭を押さえながら呟いた。
聞くところによると――事故物件とやらをマッピングしたものまであるそうじゃないか。
何に使うんだそれ。
どこまで遡って記録するのか知らんが――下手すりゃ地図全部が埋まるだろ。
天井を見上げた天元は、そのままの姿勢で心底興味なさそうにそう言った。
まあその、住んでる人が何かしら薄気味悪く思えば事故物件なんだろう、と私は返す。
ここが昔合戦場でした、と言われたところで、付近の家全てに落ち武者が出るわけでもあるまい。
逆に――足軽の片鱗でも感じてしまったら、そこはもうそういう物件になるのだろう。
世の中には、そういうことを気にする人もたくさん――
いや、待て――
そもそもだ、そんな相談だったら神社仏閣を勧めればいい話じゃないか。
なんでまた――占い師のお前にその話が回ってくるんだ。
混同してしまいそうになるが――そういう領分なら天元は門外漢のはずだ。
いや、それがな――
顔を下ろしてこちらを向いた天元は、心なしか――
受け口になっているように見える。
これもまた付き合いが長いから判るのだが――
こういう表情の此奴は――笑いを堪えている時だ。
お客の部下の人がな、ぶっ、霊感が――あるそうなんだよ。
そ、その、人が――れ、霊感のある人が、ふっ、うちを勧めたそうなんだ、よ。
まず――占って、もらって、ぶふっ、
それから――神社とかに行ったほうがいいって――
なんとか半笑いで話していた天元は、やはりツボに入ってしまったのか――
耐えきれずに机に突っ伏して、肩を震わせ始めた。
どこの誰かも知らないが、此奴に占ってもらった客が――気の毒だ。
だ、だっておまえ、霊感だぞ、れいかん。
そんな――
あるかどうかも判らん感覚を頼りに――
いるかどうかも判らん悪霊を――
中るかどうかも判らん占術で――
どうしようってんだ――
もう完全に笑っている。
本当に――気の毒だ。
神社か寺に行けと、言えばよかったじゃないか。
おま、お前が――ぶふっ、話しを聞くから、だろうに。
あんまり天元が笑うので、つい私もつられて笑ってしまう。
まあ、たしかに――可笑しくはあるのだが。
この手の話だと、直ぐに神社か寺に行けとなる事が多いが――神主も住職も困るだろうなあ、と思わなくもない。
生業が違うだけで――生活の根っこは私達と同じ人間なのだから、家に幽霊が出るんですがと言われても困るだろう。
精々がお祓いぐらいしかできぬだろうし――効いたかどうかも判らない。
それに、出るモノによっては――教会じゃないと拙い場合もあるだろうに。
悪霊が外国人だったら、寺も神社も困るだろうな等と馬鹿なことを思ったところで――
私は笑うのを止めた。
それで――お前その客に何て話したんだ。
私は天元におそるおそる尋ねた。
嫌な――予感がする。
どうもこうもあるか、領分違いだろうが畑違いだろうが、客は客だ。
ようやく笑い終えてむくりと机から身を起こすと、天元は鹿爪らしくそう言った。
きっちり解決してやろうと、こう思ったわけなんだ。
ひ、引き受けたのか。
受けたさ、でもなあ――
天元は再び天を仰ぐ。
そこさ、事故物件じゃあないんだよな。
私は――
餌を取り上げられた犬のような顔をしたに違いなかった。
6.
陽山は、その奇妙な患者のことを思い出していた。
名は、たしか――弥吉、と言いましたかな。
まあ、悪い男ではなさそうでしたが、真面目というでもありますまいな。
なにしろ――
いわくつきの場所に好んで行くような男ですからなあ――
いわくつき――と言いますと――
苦虫を煎じ詰めたような風味の生薬をようよう呑み下すと、兵十郎は陽山に尋ねた。
何でも、良くない堀だか川だかがあるらしくてですな。
まあ、何が如何良くないのか、そこに行った結果何があったのか――その辺になると口を濁すばかりで明瞭とは判らなかったのですが。
とにかく――その場所に行った日から――
家が病みついた、と――
家に何かが居る、と――
おかげで自分も体調が悪くなる一方だと――
こう言うんですな。
それは――先刻の話にもなりますが、たしかに医者の領分では――ないように思えます。
兵十郎は生薬の入っていた器をそっと置いて言った。
正直なところ、弥吉とやらの言うことも解らぬではない。
気色の悪い所へ行き、気色の悪い目に遭えば――
体調も崩すだろう。
いずれ自業自得ではあるのだが。
だが、そういうモノが原因なら尚更寺や神社に――
それが――
神社仏閣は――
医者ではないでしょう、と、こう言うんですな。
医術を扱えぬ者が、自分と家の病を癒やすことはできぬでしょうと――
いや、八坂殿が仰りたいことは判ります。
判りますが――
一理ある、と――言えなくもない、ような――
そう言って首筋を摩する陽山に、兵十郎は言った。
なるほど解りました、要するにその男は――神社仏閣を求めておらぬようですな。
求めていない――
いわくのある場所に行ったせいで不幸が続く。
あるいは心身に変調を来す。
これはまあ、因果関係は別として実際に起こりえる、というより――そう感じるのでしょう。
無いところに因果を作るのは――人が得意とするところです。
しかし、その原因の取り除き方は人によりましょう。
おそらくその男は、弥吉は――
医者ならばこの病を治せると、そう思っているのです。
だとすれば――寺も神社もお門違いと言うことになります。
あくまで弥吉にとっては、ですが――
そこまで聞いて、陽山はなんとなく感じていた後ろ暗さの理由が判った気がした。
あの日――陽山は弥吉に言ったのだ。
そういうものは、医者の手には負えん――
寺か神社か、修験者にでも頼むよりあるまい――
そう言って弥吉を帰したのだ。
少なくとも弥吉のためを思ってそう言ったのだが――
逆だったのだな、と陽山は呟いた。
如何にも――
兵十郎は深く頷いた。
この場合、弥吉が求めていたのは医術による事態の解決だったのでしょう。
医者による治療を求めておる者を神社仏閣に連れて行っても、ほとんど効果はありますまい。
その者にとって、そこで施されるのは――ただの呪いです。
なるほど、腑に落ちました八坂殿――
そう言ったものの、陽山の表情は晴れない。
弥吉は頼るべき所を間違えているわけではない。
自分を救ってくれると思ったところに赴いただけなのである。
しかし悲しいかな――
ご承知のとおり私は医者でしてな。
生憎、呪いだの大祓だのの類はさっぱり解らんのです――
そう言って、陽山は溜息を吐いた。
まあ、医者に掛からずとも、仏を拝まずとも、神に縋らずとも――
いずれ治るのであろう。
それをせずにいられぬから――人間らしいとも言える。
だがあの男の――弥吉の、心底参ったような顔を思い出すと――
陽山先生、呪いなど行う必要はありません。
兵十郎は手を翳しながら陽山に言う。
申したでしょう、それは別の領分の者が施すものであると。
先生が施すのは――医術です。
だがどうやって――
身を乗り出した兵十郎に気圧されるようにして、陽山はわずかばかり身を引いた。
手はあります。
ここはひとつ――
先達の知恵を用いましょう――
そこまで言ってから、兵十郎は――
ようやく、腹の痛みが無くなっていることに気づいたのだった。
7.
あんな動画など、見なければよかったと――
私は布団の中で後悔していた。
部下の若い者達が、昼休みに面白がって見ていたのだ。
課長もご覧になりませんか――
これほんとにやばいやつらしいですよ――
見たら――呪われるって。
何を馬鹿な、と言ったものの。
人一倍そういうものを怖がるくせに――
怖がっていると思われるのも癪だったので――
一昔前の、ワイドショーの動画を切り抜いたものだった。
奇妙な歌を唄う人々の映像に。
一瞬だけだが――写っていた。
かすかにだが――聞きとれた。
あれを見たせいで――
この家にも来てしまった。
せっかく新築の物件を見つけたのにだ――
その夜も私は、正体不明の跫音に怯えていた。
あの――占い師が、何とかしてくれるはずだ――
8.
新築らしいんだなあ、これが。
天井を向いたまま呟く天元より、何故か私の方が慌てている。
新築って――
まて、事故物件って、その方が言ってるのか。
新築なら、何も起こるはずが――
そもそも事故物件だったとしても何も起こらんだろ。
それがな、妙な動画を見たんだそうだ。
呪いの動画みたいな――陳腐なやつを。
元々苦手だと仰ってたが、何で見るかねそんなのを。
顎楽、とかいう儀式の映像らしいんだがな――
呪いの――動画。
陳腐かどうかはさておき、兵藤氏はそれを見たのだ。
それじゃ、それのせいで――
呪いが自宅にも感染った、と、こう仰るんだな。
私は――目眩がした。
頭も痛くなった気がするが、それこそ気がするだけだろう。
いや、そんなことより――
どうするんだ、その物件で事故だの、不審死なんて起こってないんだろ。
ない。
金輪際、ない。
心理的瑕疵とかの記載も、ないんだろ。
調べてみたのか、古戦場やなんかとかと縁は――
ないんだよ。
調べたけど何もない、綺麗なもんだ。
地図が埋まるって言ったけど、ありゃ間違いだったよ。
埋まらない場所も、あるんだな――
感心してる場合か。
そんな所を――
どうやって事故物件にするんだ。
それを、今考えてるんじゃあないか。
天元の答えに――
私の目眩は更に強くなった――気がした。