冷雨は甘雨へ
傷だらけで、水底に落ちていく。
———痛く………ない………
今も、お腹から温かい血が流れ続けているのに、身体は一切の痛みを伝えてはこない。
「………!」
水の中に落ちていく感覚。―――そのまま落ち続ければ底につくのだろう。
そう思っていたのに、視線の先には微かな光が見えた。
———あぁ………あそこに………
頭の中はハッキリしない。―――自分が今まで何をしていたのかさえ思い出せない。
だが、なんとなく分かる。あの先に行けば、全部、楽になれる。
だから、手を伸ばす。―――何も判然としない頭で、ただ自分の感覚に従い、落ちていく速度をあげていく。
そんな時だった。
小さな手が私の手を引っ張った。
「………?」
水底の光から目を離して振り返ると、なんだか見覚えのある手が———非力な手が、一生懸命に私の腕を引いていた。
「………」
その手に、見覚えがある。
「………」
とても大切で、
何にも代えがたくて、
命を賭けて探して、
命に代えても守りたかった、
「ヴェー………ル………」
その瞬間、身体がゆっくりと引き上げられる。
———そうか………私は………
手から伝わる温かな熱が、頭の霧を払い———今までの自分が鮮明に思い出される。
「………」
同時に、一向に止まらない血を見て―――イルは口元を緩めた。
※ ※ ※
「アベリアス………もう………」
「黙れっ………」
アスタロトの言葉を殺気と共に黙らせると、アベリアスは心臓を電撃で刺激し続ける。
「ハッ………ハッ………ハッ………ハッ………」
その隣で回復魔法を行使し続けるアサヒは、異常な汗を垂らして———それでも尚魔法を行使し続けていた。
この光景はどれくらい続けただろうか。
少なくとも、適正があり、魔力量も桁違いにあるアサヒが、魔力欠乏になる寸前まで魔法を行使しているだけの時間は過ぎている。
これだけの時間、これだけの処置。―――けれども、イルの反応は一つもない
「っ………」
見かねたアスタロトは魔法を行使しようとするアベリアスの腕を掴んで、無理やり発現を阻止する。
「………何を………する………」
「もう、これ以上は………死者の身体を傷つけることになる」
刹那―――強烈な拳がアスタロトの顔面に飛んでくる。
「ッ………」
アスタロトは、その拳を真正面から喰らい———それでも吹き飛ばされることなく、アベリアスへ視線を向けた。
「この人は………守るべきものを———全部守って………死んだ」
「お前っ………!」
冷静なアスタロトに、激昂するアベリアス。
「ハッ………ハッ………ハッ………———」
そんなアベリアス達を尻目に、アサヒは一人、イルの胸に手を置き―――茫然とする。
「助け………られなかった………」
何度も経験し、何度も絶望した———慣れない現実。
隣で母の遺体に縋りつく女の子の声が酷く———痛い。
『助けられる力』を持つ自分を、少女の泣き声が責めているように聞こえる。
「傷を塞いだのに………死なせて………」
その時だ。
イルの心臓が動いた気がした。
「ッ———」
まるで細い糸を手繰る様に、アサヒはイルの胸に耳を当てて自身の感じた鼓動を確認する。
トクンッ………トクンッ………
微かに、そんな音が彼女の耳朶を僅かに震わせた。
「心臓が………動いた………!!」
「ッ!!?」
「―――!!?」
その言葉に、二人の魔族は手を止めてイルの顔を覗き込んだ。
「お母さん………? お母さん………!!」
アサヒの言葉に反応したヴェールも、顔を上げて、母の顔を覗き込む。
「ヴェー………ル………」
イルは、娘の名を呼んで———目を開く。
「お母さん………!」
「イルさん………!」
ヴェールも、アベリアスもイルの顔を覗き込む。
視界も定まってなさそうなイルの目は、ヴェールと、アベリアス、アスタロトへ向き、二人の存在を認めたような反応を見せる。
「ヴェールに………用があって………戻って………来たのに………」
アベリアスとアスタロトが居ることが予想外だと言わんばかりに、イルは力なく笑う。
「戻って………来た………? イルさん………それは———」
イルの不穏な言葉に、笑みを消したアベリアス。
そんなアベリアスの言葉に続くように、イルはゆっくりと、言葉を紡ぎ続ける。
「なんの奇跡か………戻って………これたけど………」
イルは生気の薄い瞳を、再びヴェールへ向ける。
「分かるんだ………もう………長くは………ない………」
奇跡の蘇生は確かに存在した。
だが、同時に、現実は冷たくヴェール達を突き放し続ける。
「そんな………馬鹿な………」
「………」
アベリアスは、今までの努力が水泡に帰す現実に愕然とし、
アスタロトは、静かに瞑目した。
「………そんな………ことって………———」
アサヒはゆっくりと首を横に振る。
そして―――
「――――――」
幼い女の子は、静かに涙を流した。
「ヴェール………」
そんな少女の頬へ、イルは必死に手を伸ばし―――そっと触れる。
「顔を………上げて………」
「っ………」
母の聞いたことのないほど優しい声に、ヴェールはゆっくり顔を上げる。
「ヴェールは………強いから………顔を上げることが………できれば………きっと、正しいことを………選び、続けられる………」
「わた、わたっ………し、強くなんか………ないっ………」
母の言葉に、感情が追い付いたのか、涙で、その幼い顔をグシャグシャにしながらヴェールは首を振り続ける。
イルは、そんなヴェールを微笑みながら頭を撫で続ける。
「大丈夫………ヴェールは、強い………託された………言葉を………受け止めることが………できるんだもの………」
『だから………』と、諭すように、イルは途切れぬように、言葉を、紡ぐ。
「だから………顔を………上げて………」
「おかっ、おかあ………さん………!!」
「ヴェール………ぎゅっと………してくれる………?」
「うんっ………うんっ………!!」
酷く冷たい母の身体を、小さい体で必死に温めるようにヴェールは力の限り母を抱きしめる。
「ごめんねぇヴェール………辛い目に合わせて………守れなくて………一緒に———居られなくて」
「そんなことないもんッ!! 私、私ね、お母さんの………お母さんの娘でね………幸せだったよ………」
「ホントに………? だったら………うれしいなぁ………」
「お母さん大好き………! 大好きだよ………!」
「ヴェール………私も………愛して………る………」
イル・ヴェルダは、そうして眠るように逝く。
冷雨はもう、温かな雫で満たされていた。
閲覧いただきありがとうございます。
今日は、この話を書きたくなくて、かなり筆が止まっていました。




