夜黒 ヨン
賢者の柱・『羽』のとある一室。
壁が破壊され、随分と風通しの良くなった室内にて、ハーディは操縦の魔法を解いて、前のめりになりながら着地し―――近くのベッドに押し込んだ少女達へ駆け寄った。
「シュケリちゃん、ヴェールちゃん、大丈夫!?」
「私は平気だけど………お姉ちゃんが………!」
おずおずとベッドから身を乗り出すヴェールは、とても不安そうな表情を浮かべている。
「ゥゥゥゥゥ………」
「シュケリちゃん………!」
ベッドに横たわるシュケリは、まるで獣のようなうめき声をあげながら必死に頭を振り、悶えている。
考えられるのは、取り込んだ魔獣達の記憶がシュケリの自我を揺さぶっているのだろう。―――残された時間が少ないことは素人の目でも分かるほどの苦しみようだった。
―――急がないと………!
ハーディは、魔導書に複写した術式をすぐにベッドの周囲に展開。術式の構築を続ける。
術式はまもなく完成する。
あとは、『接続』の意味を込めた模様にルーン語を刻む工程を終えれば魔法は完成する。
「―――あとちょっと」
ハーディの指は動き続ける。
「お姉ちゃん、あとちょっとだよ………!」
ヴェールは必死にシュケリを励ます。
「ゥゥゥゥゥゥウウウウウウウウウッ!!」
シュケリは耐えるように声を上げて―――
どこかで『スイッチ』が、無慈悲に起動した。
それは、『希望』が潰えた瞬間だった。
それは、『絶望』が歓喜の声を上げる瞬間だった。
それは、『野望』も『誓い』も、全てをひっくり返す『混沌』の訪れだった。
「―――――――――――――――」
ピタリと『泥の少女』は動きを止める。不自然に、突然に動きを止める。―――その姿はまるで、関節を固定されてしまった人形のようだ。
「おねえ………ちゃん………………………?」
ヴェールは、『泥の少女』の様子が一層におかしくなったのを確認し、瞳を震わせながら彼女の顔を覗いて―――
「に、げ………………て………………………」
身体を動かすこともできず、瞳だけでヴェールをみた『泥の少女』は必死に声を紡ぐ。
「………………ぇ?」
「―――!?」
エルフの魔法使いは、『泥の少女』の声に、咄嗟に顔を上げ、魔族の少女は理解が追い付かず茫然とする。
やがて―――
「にげてええええええええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇ―――――――!!」
『泥の少女』から、汚泥が噴き出した。
「ッッッ!!!!」
ハーディは、間一髪ヴェールを引っ張ってその場から離脱。
「お姉ちゃん!! ダメ、お姉ちゃん!!!!」
「近づいてはダメ!!」
『シュケリ』と呼ばれた『泥の少女』は、まるで決壊したダムのように、猛烈な勢いで汚泥を噴出し続ける人外と化した。
それでも、ヴェールは姉を助けるべく『泥の少女』に駆け寄ろうとして、ハーディに動きを制限される。
「なんで!!? お姉ちゃんが………お姉ちゃんが………ッ!!」
「言いたいことは分かるわ!! でも、今はダメッ!! ―――理由はわからないけど、『ウーズ化』が始まった。今、あの液体に触れたらどうなるか分からないわッ!!」
「そんな………そんなのって………」
少女の顔が絶望の色に染め上げられる。―――端から見ていたハーディでも分かるほどに。
しかし、事態は待ってはくれない。
―――このままじゃ、階層全部あの『泥』に飲み込まれる………!!
そう、流れ出た汚泥は、すでに部屋の外の廊下にまで広がり、全てを飲み込もうとしているのだ。
「浮遊、操縦」
ハーディは、魔導書とヴェールに浮遊の魔法をかけて、自身は操縦魔法をかけた杖の上に立つ。
「模倣」
そして、泥の底に沈んでしまった術式を魔導書へと写し取る。
「………………………」
そして、自身のポケットからイアソンの血が付いた手紙を取り出し眺め―――
―――どう転ぶか分かんないけど
魔導書より、術式の書かれたページを破りとり、『イアソンからの手紙』を包み込むように丸めて、シュケリの近くに術式の描かれた魔導書の一部を投げ入れた。
「ねぇハーディ………お姉ちゃんを助けられるよね………? 私、嫌だよこんなお別れ………やだっ………」
力なく首を振る少女の瞳はすでに涙があふれかえっていた。
ハーディは、そんな彼女の目元を優しく拭う。
「―――見捨てる気なんてさらさらないわ」
「ハーディ………」
「まずは作戦を立てましょう。―――どこかにいるヨミヤ君を探さないと!」
※ ※ ※
少し前。賢者の柱一階ロビーにて。
「………」
二重魔法により、威力が倍増した熱線は、全てを溶かした。
ヨミヤは、そんな惨状を油断なく見下ろしている。
そして―――
「ッアアアアアアァァァァァァァァァァァァァ!!!」
さも当然のように生存しているアルドワーズに、ヨミヤは舌打ちを隠せなかった。
―――消し飛ぶことはないと思ってたが………まさかピンピンしてるとは………
以前に帝都で勇者と戦った時には、火球に全力で魔力を注いだ一撃で決着をつけた。
対して、今の一撃は単純に当時の威力をそのまま倍にしたも同然の一撃だ。―――それだけで咆哮を上げるあの老人が異常なのか分かるというものだ。
だが、まったくの無傷というわけではなかった。
アルドワーズの全身には隠しきれない程の火傷が広がっており、致命傷には至らないものの、確実なダメージが入っていることが分かる。
「クソ………とことんやってやるよ………」
ヨミヤは剣を構え、アルドワーズへ真正面から宣言する。
アルドワーズもそんなヨミヤと相対し、再び咆哮を上げる。
両者、何度目かわからぬ衝突をしようとして―――
突如、天井から汚泥の滝が降り注いだ。
「っ!!?」
奈落で鍛えられた本能が全力の警鐘を鳴らした。
『触れれば死』であると、うるさい程の鐘が脳内に鳴り響く。
「っアアァァ!!」
結界で前進する身体を留め、攻撃に使うほどの威力を込めた風で後方へ跳ぶ。
風で叩かれた胸が悲鳴を上げていたが無視。
後方の壁に剣を突き立てることで、汚泥から距離を置くヨミヤ。
「一体………?」
状況を正確に把握すべく顔を上げるヨミヤは―――異常な光景を目の当たりにした。
「グアアアアアアァァァァァァァァァァァァァッ!!」
汚泥の滝を、まともに浴びたアルドワーズが、肉が溶ける音と共に、汚泥に絡み取られ―――沈んでいく様を。
「冗談だろ………ッ!?」
異世界にきて色んな物を見た。
人の死も、魔族の死も、殺しも、全てを見たし、やってきた。
それでも、目の前の光景はあまりに非現実的過ぎて、脳が受け入れるのを拒んでいた。
あれでは、まるで胃袋の中で消化される生き物ではないか。
「………………ッ!?」
顔から血の気が引いていくのを感じた。
「ヨミヤ君!!」
そんな時だった。
「ハーディ………さん………?」
見知った声が響いたのは。
「ヨミヤ君来てッ!! 今は一旦逃げるの!!」
混乱の最中、明確な指示は固まっていたヨミヤの身体を解かしてくれた。
「ッ………! 今行きます!!」
ヨミヤは、熱線によって消し飛んだ壁から姿を見せるハーディに向かって鎖を飛ばし、ハーディに捕まった。
「ちょっ―――ヨミヤ君、重いんだけど………!!」
「大丈夫です! ―――空を飛ぶ手伝いは出来ます!!」
ヨミヤの体重によって傾いている杖。
抗議するハーディの背中と自分の背中に風を当てて、ヨミヤ達は賢者の柱を脱出した。
閲覧いただきありがとうございます。
思ったより長くなってしまいました。
明日は雪の予報の所があるとかないとか… 雪だった場合は投稿難しいかもです。




