第1話 布津野政志15歳
目を開ける。
視界に映るのは白い天井、異世界で見ていた帆布張りの天井では無い、懐かしい俺の部屋の天井だ。
「...帰って来たのか?」
枕元に置かれている携帯電話に手を伸ばす。
日付は2016年6月10日、俺が異世界に召喚された日より、ちょうど7年前を示していた。
「クリスティン、ありがとな」
ちゃんとクリスティンは約束を果たしてくれたのだ。
ホッとため息を一つ、ベッドからゆっくりと身体を起こす。
先ずは身体の状況を把握しなければならない。
時間だけ戻って、俺が異世界姿のままでは話にならない。
なにしろ向こうでは25歳になっていたんだから。
「...ふう」
三年振りに使ったベッドの寝心地は最高だ。
異世界じゃ、ずっと床に敷かれた薄い生地の上に毛布だった。
「いや、最後はもっと酷かったな...」
悪夢の記憶が頭に甦る。
最初はテントに個室が与えられ、床も毛布も暖かい物が支給されていた。
しかし最後の方は違った。
俺に与えられた場所は隊員達の使う便所の隣に張られた小さいテント。
床にはなにも敷かれず、地面の上に破れた毛布が一枚だった。
「ノミがいないのは最高だ」
ベッドの布団が愛おしい、全身をノミに噛まれ、俺の身体はボロボロだった。
女神の加護が無かったら、身体は衰弱して間違いなく死んでいた。
『汚ならしい...』
『本当何て酷い臭い、近づかないで』
俺が近づくだけで、ミッシェルとフランシェスカの2人に罵られた。
そりゃ臭かっただろうな、討伐隊の便所は地面に穴を掘っただけで、糞尿の臭いが俺に染み付いていたのだから。
「...あれは呪いだったんだ、忘れろ」
こんな事を思い出している場合では無い。
着ていたパジャマを脱ぎ捨て、部屋に置かれている鏡に自分の姿を映した。
「よし、戻ってるな」
そこには血色の良い肌をした15歳の俺が居た。
「ちょっと違うところもあるが...」
全身が筋肉で覆われている。
記憶にある昔の姿より、明らかに筋肉が多く、引き締まっていた。
なにより全身に刻まれていた傷痕が消えているのが嬉しい。
最後の1年、ミッシェルは俺に最低限の治癒魔法しかしてくれなかった。
『本当に...死んでくれてたら、こんな穢らわしいクズの為に魔法をしなくて済むのに...』
考えるな、我慢しろ!
頭を振り、クローゼットの扉に手を掛ける。
中には高校の制服が掛かっていた。
「...ちょっとキツいかと思ったけど」
少し心配だった制服は難なく着る事が出来た。
夏服だったのと、入学の時に少し大きめの制服を購入したのかもしれない。
「さて...」
部屋を出て、一階にあるダイニングへ向かう。
扉の向こうから聞こえるテレビの音は父さんが毎日見ていたニュース番組、漂う香りは母さんが作っている朝ごはん。
いよいよだ、やっと会えるんだ...父さんと母さんに...
「...おはよう」
「おはよう政志、今日は早いわね」
「珍しいな、雨でも降るんじゃないか?」
にっこり微笑む母さん、新聞から目を外し俺を見る父さん...
「どうしたんだ?」
父さんが俺を見て困惑している。
「なんで泣いてるの?」
「え?」
母さんに言われ、自分の頬に手を当てると指先が濡れていた。
「本当だ...」
泣いてる、俺は涙を流している。
「一体どうしたんだ、何か変だぞ?」
「な...何でも無い」
必死で涙を堪え、テーブルに着く。
しばらくして、ようやく落ち着いた俺に両親も安心した様子で笑う。
仕方の無い事。
俺はこの2人に再び会う為、魔王を倒したんだ。
敵に斬られ血を吐き、毒にやられ糞尿を垂れ流し、仲間の死に涙を流しながら戦って来たんだ。
...ミッシェルとフランシェスカの裏切りは折れそうになったが。
「こ...今度はどうした?」
脂汗の父さんが怯えている。
「ま...政志、そんな怖い顔しないで」
「俺が?」
母さんは床にへたりこんでしまった。
そんな顔を俺はしていたのか?
威圧のスキルは異世界で持っていたが、この世界に持って来る事は出来ないとクリスティンは言っていた。
威圧だけじゃない、身体強化や全ての魔法も、苦労して身に付けたんだけどな。
「さて行くか」
「行ってらっしゃい」
お父さんが席を立つ、いつも7時前に会社へ行ってたんだっけ。
「お父さん、行ってらっしゃい」
「あ...ああ行ってきます」
俺が声を掛ける、少し驚きながら父さんは返した。
はにかんだ顔に胸が熱くなる、それを見て母さんは笑っていた。
「...絶対に護ってみせる」
「何を?」
独り言に母さんが不思議そうだ。
でも説明は出来ない、後1年したらこの幸せな生活が失くなってしまう。
忌まわしい記憶。
ある日、突然父さんは殺されたのだ。
父さんは会社に行く途中、いきなり刺された。
急を聞き、母さんが病院駆け付けた時、父さんの意識は僅かにあって会話が出来たそうだが、俺が着いた時は既に危篤状態だった。
そのまま父さんは亡くなってしまい、母さんはその死を受け入れられずに、命を絶ってしまった。
結局犯人は捕まらなくて、それから俺はずっと...
「早く食べなさい、冷めるわよ」
「...いただきます」
母さんに促され、温かい味噌汁に口を着けた。
「旨い...」
三年振りの日本食、いや母さんの作った料理を口にするのはそれ以上振りか。
異世界でも最初はまともな食い物だったんだっけ...
『クズでも食事は食べるのね』
『ゴミクズのスープには泥水を混ぜてあげる』
『あら、美味そうになったじゃない』
...だから呪いだったんだ!なんで記憶が!!
「美味しいよ...母さん」
必死で心を鎮める。
今は母さんの御飯に集中したい。
「そ...そう?今日は変よ、政志...」
「...そうだね」
この時間を過ごせる幸せだけを噛み締めたいのに。
「...おはようございます」
「...おはよう」
「あら、もう来ちゃったわ」
玄関から女の声がする。
一体誰かな?
「おはよう。
ちょっと待っててね、政志ったらまだ食べ終わらないの。
中で待っててくれる?」
母さんの声から察するに、俺の知り合いらしい。
でも、そんな人いたっけ?
「誰が来たの?」
「はあ?」
なぜだ、どうして母さんは呆れてる?
「...おはようマサシ」
「...マサシ...おはよう」
2人の女の子が姿を表した。
俺の高校の女子制服を着ているが、全く記憶に無い。
いや、それ以上に目をひくのは2人のその美しさだ。
「初めまして...」
...それ以上...声が出なかった。