散るは花びら 雨の織
「……ずっと、貴女を探していました」
かすれ声でそう告げた青年は、いったいどれだけ過酷な旅をしてきたのだろう。
もとは良い仕立てであったろうぼろぼろの着物、ひもが擦り切れて用をなしていないように見える脚絆。足袋の足先は赤茶けた染みが滲んでいる。
涼しげな顔立ちも土埃で汚れ、紐で束ねた髪もほつれている。
そんな有様だというのに、万感の想いが込められた瞳はひどく美しく清廉だった。
けれど小菊は、この青年のことを知らない。
そして、知らないはずなのに、ひどく懐かしいような不思議な心地がした。
(あにさま……?)
子供の頃に見送った兄と似ても似つかないというのに、青年からはなぜか兄の気配がする。
そしてそれは、人ならざるあやかしの気とどこか似通っていた。
名をたずねようと口を開きかけたそのとき、青年が息も絶え絶えに呟いた。
「やっと、見つけた――」
安堵したような表情で、青年はふらふらとその場に膝をつく。
桜の花びらがひとひら、散ったような気がした。
ふっと目を閉じた次の瞬間、彼の全身から力が抜け、どさりとその場に倒れ伏した。
水を張った桶と手ぬぐいを持ってお堂に入った小菊は、筵で身を起こした青年の茫洋としたまなざしに出迎えられて肝をつぶした。
桶の中で跳ねた水が少しばかりこぼれ、小菊の緋袴に染みを作る。
気絶した後、尼僧たちを呼んできて数人がかりでこのお堂に運び込むときにぴくりともしなかったものだから、まだ当分気がつかないだろうと思っていたのだ。
「私は……いや。ここは」
頭が痛むのか、青年は手で額を覆うようにして小菊に問うた。
幾分か落ち着いた小菊は細く長く息を吐き、吸って、そして答える。
「山中の寺にございます、旅のお方。境内で気を失ってしまわれたので、こちらに」
「そうか……。かたじけない」
青年は静かな動作で、深々と頭を下げた。
「いえ……。山頂の社にお参りされる途中でございましたか」
小菊はあえてそう聞いた。
自分を探していた理由に心当たりがないわけではなかったが、青年の出方を探ろうと思ったのだ。場合によっては、青年が満足に動けないうちにここを立ち去らねばならない。
「違う。……なぜだ……思い出せない」
しかし青年は、呻くように呟くと髪をかきまぜた。話し方や身なりから見たところ育ちが良さそうだが、焦りからか似合わない仕草をする。
小菊は耳を疑った。
「……え?」
少し前に、小菊を前にして探していたと言っていたではないか。
青年は何かを払うように首を横に振り、震える手で胸元を押さえた。そして、はっと気づいたようにその手を着物の衿ごと握りこむ。
「人を。そう、人を探していたはずだ。大切な届け物が」
自分に言い聞かせるかのような物言いだった。
小菊は息を吸い、慎重に尋ねる。
「届け物とは、その、胸に抱えている物にございますか?」
青年は、平たく細長い箱か何かを、布で包んで着物の内側にくくりつけていた。
青年は警戒心もあらわに小菊を見た。
「なぜ」
小菊はその鋭い目線にたじろいで、目を伏せる。
「申し訳ありません。寝かせるときに、見えてしまいました」
うなだれた小菊の様子に、青年も平静を取り戻したのだろう。
張りつめていた空気が緩み、青年の顔に苦笑が浮かぶ。
「いや。助けていただいたのだ。謝られることではない。こちらこそすまなかった」
そうして青年は深々と頭を下げ、やがてゆっくりと顔を正面に戻した。
その顔には、真剣な決意が表れているように見える。
「自分は清信と申します。貴女の名は」
またしても、小菊は瞠目した。
ここまできたら、小菊が探し人であることを覚えていないという不可思議さも納得せざるを得ない。
そして。青年の名で、小菊は悲しい確信を得た。信じたくはないことだったけれど。
「……わたくしは巫女ゆえ、名乗らぬ無礼をお許しください」
小菊は巫女だ。
名前には力が宿る。とりわけ巫女の真名は、祈りと呪いを内包している。
「ここは、尼寺だと思ったが……」
「わたくしはこの寺の者ではないのです。しばし身を寄せていた次第で」
「では、山頂の社の」
小菊はただ、頷いてみせた。
「不思議だな。この山の頂に社があるということは覚えているのに……。そこが目的地だったのだろうか」
悔しそうに、青年は着物の襟をぎゅっと握った。
小菊を探していたのが本当ならば、おそらくそうだったのだろう。
薄暗い堂の中を、沈黙が満たす。
動いたのは青年だった。
静かな動作で立ち上がり自らの恰好を確かめると、ためらいなく歩き出す。
「どこへ?」
「思い出さねば。私の使命を果たせない」
「お待ちください」
小菊は慌てて、戸口の前に立ちふさがった。
青年はわずかに瞠目し歩みを止め、小さく息をつくと小菊を強い目線で見据えた。
「どいて下さらぬか、巫女どの」
小菊は首を横に振った。背中で束ね髪が揺れる。
そして大きく息を吸い、言い聞かせるように言った。
「貴方の探し人はわたくしです。倒れる前、貴方がそう言いました」
青年ははっきりと驚きをあらわにした。
「それは、誠か」
小菊が頷くのを見て、青年は記憶を探るように眉根を寄せる。
しかしやがて、力なく目を伏せた。
「……すまない。私はそれを真実だと判じることができない」
「さようでございますか」
応じた小菊は、自らが思うよりも落ち着いていた。
この清信と名乗った青年が慎重な性質であることは、これまでの問答でうかがい知れたからだ。
小菊は一度、目を閉じて考える。
脳裏に浮かんだのは、旅立ちを見送って久しい、たった一人の家族のことだった。
(あにさま……お山を離れることをお許しください)
そして目を開けたときには、小菊の心は決まっていた。
小菊が一歩、清信の方へ踏み出す。
頭二つ分低い位置から見上げてくる小菊の視線の強さに、清信はぐっと唇を引き結んだ。
「ですがわたくしは、確かにこの耳で聞きました。ずっと探していた、と」
清信の両目が、拒絶を示すように固く閉じられる。
「思い出すあてはあるのですか」
緊迫した空気に似合わない穏やかな声音で問われ、清信は苦しげに答えた。
「……ここでじっとしているわけには」
次いで、拳が握られる。
小菊は青年の固そうな拳に目をやった。骨ばったその手は、刀を握る手であることが見てとれた。
生まれも、育ちも、生業も。清信について、小菊が知っていることはほとんどなく、推測でしかない。
けれど、次の言葉をためらいなく告げた。
「ともに参ってはいけませんか?」
驚いた清信は、無意識にか胸に括り付けてある物に手を添えた。
「私は山を下りるつもりだが……そなたはこの山の巫女ではないのか」
「ええ。ですがすでに、お仕えしていた社を失くした身。わたくしも、山を下りる旅の途中なのです。旅は道連れと申しましょう」
そう言ってかすかにほほ笑んだ小菊に、何を思ったのか。
清信は眉を下げ、ちらとその目に哀れみをのぞかせた。
「あてのない旅の道連れか」
諦念のにじんだ清信の言葉に、小菊はかぶりをふってみせる。
「いいえ。二人でなら、きっとそうでもないでしょう」
「……どういう意味だ」
いぶかしむ清信の視線から、小菊はそっと目を逸らす。
「この寺の石段を降りきった先に、大きな桜の木があるのを覚えておいでですか?」
「……覚えて、いる」
唐突にも思える小菊の問い。答える清信の声は動揺が表れていた。
「ひとまずはその桜を目指しましょう」
言いながら、小菊は清信に背を向けた。
そして彼を導くように、半分開けていた戸を開け放つ。
いつの間にか、すっかり日が落ちている。
一歩、堂から出た小菊は、夜風に煽られた髪を押さえて振り返った。
今宵は満月。大きな月を背負って宵闇に浮かび上がるようなその姿に、清信は思わず目を細める。
ちり、と。清信は記憶の奥底に火花が散ったように感じられて、思いのまま呟く。
「桜……」
「わたくしの浅慮ですが……おそらくそこで、記憶が途切れているのではございませんか?」
言葉もなく頷いた清信は、小菊を追って外に出た。
月明かりの下の道行きに、会話はなかった。
石段を降りる足音だけが、夜にこだまする。
一歩一歩、降りていく度に、小菊の思いは過去へと沈んでいった。
思えば、もうずいぶんと一人でいたのだ。
社を出たのはほんの二月ほど前だったが、それまでも少しずつ、社にいた者を里へおろした。ここ半年ほど、小菊はたった一人で社にいた。
社と、御神木とを守るだけで精一杯の人間が、他の者をも守れるはずはなかった。
五年前に旅立った兄からの文も途絶え、とうとう。
小菊はもう、何も持たない娘になってしまった。
石段を降りきったとき、小菊の後ろを歩く清信が息をのんだ。
満開の花をたたえた桜の木が、ほの白く光っている。
大きな月が雲に隠れた。だというのに、あたりが闇に閉ざされることはなかった。
桜の幹にそっと手を触れ、小菊は目を閉じた。土が強く香る。
流れ込むように、生命の息吹が小菊を巡る。
(やはり、あにさまは……)
目の奥の熱さをぐっと耐えて、小菊は清信に向き直る。
「この桜は、山頂にある桜の木……社の御神木と通じているのです」
魅入られたように桜を見上げる清信に、はたしてその言葉は届いているのか。
「櫻之丞どの」
清信が、ぽつりと名を呟く。
遠くにいる人を懐かしむような声だった。
呼応するように桜の枝が揺れ、ひとひら舞い降りた花びらが、小菊と清信の間に落ちる。
「思い出しましたか」
小菊にとっても、懐かしい名だった。
櫻之丞。小菊のたった一人の血を分けたきょうだい。双子の兄の名だ。
「ここに、櫻之丞どのが立っていた」
清信が震える手を小菊の方へのばす。
小菊をすかして記憶の幻影を見ている。
「ちょうど、今貴女が立っている場所に。桜に、手を添えるようにして……」
清信の痛みを耐えるような顔に、小菊の胸も痛んだ。
その先を聞きたくないのは、小菊も同じだ。
「そして私に向かって言ったのだ。妹に、必ず届けてくれと……最期の言葉と、全く同じことを」
清信は顔を辛そうにゆがめ、そして。
「そうだ。彼がここにいたはずはない。彼は亡くなった……私が、看取った」
静かにそう告げると、小菊の方へ伸ばしていた手をぐっと握りこんだ。
小菊は深く息を吸った。目を閉じ、込み上げてくる思いを抑え込む。
兄の死を受け入れる前に、やらねばならないことがある。
「やはり、貴方も見鬼でいらした」
「なに?」
小菊の言葉と表情に、清信は身構えた。
ざあと木々の音が鳴るほどの風が吹き、淡雪のように花びらが舞う。
清信の胸に抱えた箱の中で、ことりと音がした。
「清信さまがここで見たのは、櫻之丞の霊でしょう」
確かめるようにそう言った小菊は、悲しみを隠さずに眉を寄せた。
「櫻之丞も巫子です。本来であれば、霊になって現世に縛られるような魂ではない」
忘れていたことが不思議なほどすべてを思い出した清信は、小菊の目線を痛ましげに受け止める。
「あにさまの……櫻之丞の最期は、どのようなものでしたか」
ひそやかに問われたそれは、清信の胸を一層締め付けた。
「貴女に聞かせるには酷なことだが……無念の死だった。里に現れたあやかしを調伏したときに、目と胸を突かれて……しばらく臥せっていて、そのまま息を引き取った」
清信の悔やむような様子に、小菊は少しだけ慰められた。
兄の死を無念だったと言ってくれる人間が、自分の他にもいるのだ。そして彼は、看取ったとも言っていた。
兄は一人ではなかった。
そして死にざまを聞いて、兄の身に起こったことのすべてを悟った。
「あやかしに。やはりそうでしたか」
乞われてもいないのに、小菊は続ける。清信に聞いてほしかった。
「この桜には、あやかしが封印されていました。山頂の御神木と二つで一つ……御神木による封印が解かれてしまった。今のこの木からは、妖気が消えている」
訥々と語られる言葉を黙って聞いていた清信は、そこで初めて口をはさんだ。
「御神木の封印は、なぜ」
小菊は今しがた降りてきた石段を見上げる。
「山頂の桜は……燃えて、朽ちました」
清信が驚きに目を見開いた。
小菊と櫻之丞と、二人で守ってきた封印だった。離れていても守りは固かった。
今ならわかる。封印が解け、天の怒りが社にくだされたのは、櫻之丞の命が散ったからだったのだ。
「そして、清信さま。櫻之丞の魂を連れて、貴方がここにたどり着いた。貴方は……遺品を届けに来てくださったのですね」
小菊にひたと見据えられ、清信は胸の包みをそっと取り出した。擦り切れた布の包みをほどくと、精緻な装飾の彫られた白木の箱が現れる。菊をかたどった模様は、美しいがどこか寂しげだった。
「妖気をまとってしまった兄の魂と、桜に棲むあやかしが溶け合ってしまったのだと思います」
そして今、その霊魂は。
小菊は桜から手を離し、清信への距離を一歩詰めた。
そして、瞳の奥の薄紅色の光を覗き込むようにして、目に力を込めた。
清信の体がわずかに強張る。
(縫い留めた)
小菊の巫女としての力は不安定だ。上手く使えたことに安堵して、再び気を集中する。
「わたくしを探していたのは、きっと清信さまではない。だって貴方はわたくしの居場所をご存じのはずでしょう。あにさまに頼まれたのですから」
小菊は再び、清信に近づいた。拳一つ分ほどの近さで、清信を見つめる。二人の間には、清信がまだ大事に抱えている白木の箱しかなかった。
清信は小菊との距離の近さにたじろいだ。じり、と身じろぎしてしまったときに踏みしめた土が、強く香る。
そして、自分の中の何かが、ここから逃げ出したいと感じていることを知る。得体のしれないものが自分の中にいると、はっきり自覚した。
「私でなければ、誰なんだ」
恐れを封じ込めるように、清信は腹に力を込めた。強い声で小菊に問う。
小菊は目を逸らさずに、つとまなじりを下げた。
不思議な表情だった。清信に対しては、どこか労わるようでもある。
しかし目の奥で、鋭く何かを捕えている。
「清信さま。貴方が知らないはずのことを、知っているのではありませんか?」
ささやくように問われて、清信は細く長く息を吐いた。
「難しいことを聞く……」
深く考えたいのに、小菊から目を離せない。
目を閉じるのは、清信の考えるときの癖だった。けれど今はそれが許されていない。
「よく思い出してください。例えば」
空気が湿り気を帯びていた。
次の小菊の言葉は、清信の頬に雨粒が落ちたのと同時だった。
「わたくしの名とか」
清信の目の奥で、何かが爆ぜた。
目の前の小菊が一つ瞬きをする様が、ひどくゆっくりと目に映り、清信はしきりに瞬きをした。
「なぜか……櫻之丞どのも教えなかった貴女の名を、知っている」
小菊はひとつ頷いた。再び清信の瞳を見つめ、爆ぜた光をひたと見る。
雨は絹糸のように細く白く降り始めた。
そして小菊は、大きく息を吸い込んだ。
「清信さまがお一人に戻られるまで、けっしてその名を呼んではなりません」
「なにを……っ!」
驚きに目を見開いた清信と、やはり目を合わせたまま。
小菊は懸命に伸びあがり、清信の胸に手を添えると、そっとそのくちびるを合わせた。
合わせたくちびるから、気を吹き込む。
巫女に気を吹き込まれた清信の体から、ほの白い光がふっと浮き上がった。
清信の瞳の奥からも、薄紅色の光が消える。
それをしかと確かめてから、小菊はようやくくちびるを離した。
伸びあがっていたかかとをおろし、勢い余って後ろにたたらを踏んだ小菊の胸にめがけて、清信から追い出された霊魂が吸い込まれる。
探していた魂にたどり着いて暴れまわろうとする妖気と、それを抑え込もうとする霊魂とが、小菊の胸の中でせめぎあった。
「うっ……」
顔を歪め、胸を押さえてうずくまった小菊に、清信は血相を変える。
「何をしたんだ!」
清信の腕に縋りつくようにして、小菊は叫んだ。
「兄の守り刀を、お早く!」
気がつけば白木の箱ががたがたと揺れている。
清信は素早く箱を開けた。仕掛け鍵になっている箱は、軋むことなくその中身をさらす。
箱の中には、黒髪が一束と文、そして五寸ほどの守り刀が納められていた。
その守り刀の鞘は、小菊の見たことのないものだった。流麗な桜の模様が彫り込まれている。
けれどその見覚えのない鞘でも兄の刀だとわかるのは、鞘がわずかにずれ、その隙間から光が漏れているからだ。
清信から受け取った守り刀を、小菊は震える両手で捧げ持ち、鞘から抜こうとした。
(抜けない、なぜ……!?)
雨で小菊の手が滑る。
あっと思ったときには、守り刀は手から離れ、座り込んだ小菊の膝の上に落ちた。
そのはずみか、ちっとも抜けなかった鞘が外れる。
零れ落ちるように膝から滑って地に転がった守り刀には、刀身がなかった。
「これは……!?」
驚いた清信が畏れるような手つきでそれを拾い上げた。
その刹那、柄から伸びるようにすうっと光が現れる。
白藍色のその光は、見る間に刀身を形づくっていった。
その光景を目の当たりにした二人は、どちらともなく目を合わせた。
小菊は浅い息を整えようと呼吸しながら、呟く。
「使い手が……移っていましたか」
信じられないものを見るように、清信は自らが握った守り刀を持ち上げた。
「その守り刀は、見鬼でなければ使えませぬ」
「確かに、見えるが……使い方など、なにも」
「よいのです。調伏はその刀がいたします」
小菊がそう言った瞬間、胸が締め付けられるように痛み、再び呼吸が浅くなる。
案ずるように見ている清信に微笑みかけて、小菊は立ち上がった。
「兄は血を分けたわたくしの半身。わたくしたちは二人で一人前でした。清信さま、巻き込んでしまって申し訳ありません」
「私は何をすればいい」
すぐさま問うた清信に、小菊は笑みを深めてみせた。
絹糸のような細い雨が、二人の頬を濡らしていく。
小菊はそっと、兄の魂と妖気が渦巻いている自らの胸を、手で示した。
「その刀で、わたくしの胸を突いてください」
小菊の言葉に抗うように、妖気が膨れ上がる。
それでも屈せずにいられるのは、兄の魂がともに闘っているからだった。
声もなく驚いている清信に反論の余地を与えぬよう、小菊は続ける。
「さすれば、この心を蝕む霊魂もあやかしもろとも散りましょう」
「そういう、ことか」
清信は固く目を閉じて、迷いを振り切るようにうつむいた。
この細い雨でも、花は次々散っていく。
次に目を開けたとき、彼の目に迷いはなかった。
ゆっくりと、淡い光を放つ守り刀を構え、小菊を見すえる。
小菊は小さく頷いた。
清信が地を蹴ったと思った次の瞬間には、小菊の胸に軽い衝撃が走る。
胸の奥深くで、妖気と霊魂が霧散していく。
たとえようもない喪失感に、目の奥が熱く痛んだ。
小菊の頬を温かな雫が伝って、地に落ちる。
その刹那、淡く光っていた刀身がふっと消えゆくのを見た清信が、柄を握る手を恐る恐る小菊の体から離した。
膝から崩れ落ちた小菊の正面に膝をついて、清信が案ずるように肩に手を置く。
「上手くいったのか」
胸を押さえて、小菊は何度も頷いた。
「ありがとうございます、清信さま」
はっきりと涙声になっている小菊を前にして、清信は悔やむように眉を寄せる。
「すまなかった、私が霊魂に取り込まれてしまうところだったのだろう」
「いいえ……櫻之丞が未練を捨てなければならなかったのです。わたくしが不甲斐ない妹でなければ、安心して逝けたでしょう」
最後になってしまった文で、小菊は兄に不安を吐露していた。
一人で心細かったからといって、案じさせてはいけなかったのだ。
小菊の心の弱さが、兄の魂を寂しく散らせてしまった。
「櫻之丞どのは情の深い人だった。死にゆくときに離れている妹を案ずるのは無理からぬことだろう」
諭すような清信の声が、小菊の胸をつく。
涙は枯れることなくあふれた。
清信にそっと促され、二人は雨をしのぐため木の影に身を寄せた。
雨に打たれたといえども、勢いの弱い雨だ。着物の中までは濡れずに済み、暖かな夜で冷え込みも和らいでいたことも幸いした。どのみち月も雲隠れしたこの暗さでは、山の道行きは危険だった。
散っていく桜を眺め、ようやっと頬をぬぐった小菊に、清信は白木の箱を差し出した。
櫻之丞の最後の文を読んだ小菊は、再びあふれた涙をぬぐった。自分が死の淵にいたであろうに、最後まで小菊を案じる内容と、それでもどこか明るい言葉が、見慣れない筆跡で綴られている。
聞けば、櫻之丞の語る言葉を清信が代筆したという。
文と遺髪を懐に大事にしまって、小菊は何度も清信に礼を言った。
清信は何度目かの礼で小菊の頭を上げさせ、守り刀を差し出した。
「この守り刀も、貴女に返そう」
小菊は困ったように微笑んで、首を横に振った。
「いいえ、それは清信さまが持っていてください」
「しかし……」
「では、その箱をわたくしにいただけますか」
今度は清信が困る番だった。かすかに眉を下げ、ためらうように箱を撫でる。
「構わないが……この刀ほど価値のあるものではない」
「よいのです。綺麗な彫で、気に入りました」
歯切れのよい小菊の返答に清信は思わず瞠目し、照れたように目を伏せる。
小菊は首を傾げた。
「……どうされたのですか」
「……それを彫ったのは、私だ」
言いづらそうに答えた清信は、箱の彫を指でなぞるようにしながら語る。誰に聞かせるでもないような独白だった。
「櫻之丞どのだけであった。私の彫を、名主の次男坊の道楽だと馬鹿にせず褒めてくれたのは。この箱も、櫻之丞どのに頼まれて彫った」
兄の文には、清信の名が書かれていた。世話になっている家の息子だとのことだったから、それなりの家の方だろうと思っていたが、名主さまの息子とは。
(霊魂をはがすためとはいえ、なんて失礼なことを)
兄の気楽さに小菊が焦っている間も、清信は懐かしげに目を細め、感じ入ったようにつぶやいた。
「だから、菊の模様だったのだな……」
そこで清信がすっと小菊を見たので、慌てて姿勢を正す。
「小菊どの」
小菊は縫い留められたように動けなかった。
「貴女には命を救われた。櫻之丞どのにも、里を救われた。私にできることならば、いかなことでも恩を返そう」
清信の真剣なまなざしに、息が止まる。
なぜだか急に、兄の魂を失ってぽっかり空いてしまった心の穴が、冷たくうずく。
願いが口をついて出た。
「欠けた心を……」
しかし己の声のぞっとするほどの寂しさに、小菊は我に返る。
(何を、言おうとしているの)
許されることではない。兄にも清信にも、申し訳が立たない。
その穴は、小菊が自分で埋めていくものだ。
言いかけた小菊をいぶかしんで、清信が口を開こうとする。
小菊は慌ててかぶりを振った。
「いえ、なんでも。清信さまはこれから里に帰られるのでしょう」
「ああ」
戸惑いつつも頷いた清信に、小菊は頭を下げた。
「連れて行ってくださいませんか、兄を弔ってくださった貴方の里に。恩返しなら、それで十分です」
「それだけでよいのか」
「何よりも、大切なことです」
小菊の旅は、まずはそこからだ。
清信は優しい顔で頷いた。
しばし会話が途切れたが、やがて清信がためらいつつ問う。
「その先は」
小菊はどこか晴れやかな気持ちで、首を傾げた。
「……さあ。まだ決めておりません」
「櫻之丞どのは、貴女の婿を探していると言っていたが」
そんな事情まで話していたのかと、小菊は兄の口の軽さに驚いた。
気まずそうにしている清信の態度に少し慰められたが、どうしても答える声は暗くなった。
「継いでゆくべきお社もなき今、もう必要のないことです」
小菊たちは巫女の家系だった。代々外から婿を取り、巫女が社を継いで守ってきた。
それが自分たちの代で途絶えてしまった。悔しくもあり、寂しくもあった。
それらを振り払うように、小菊はつとめて明るい声を出した。
「ですが、そうですね。お清めと機織りくらいしかできない女でも貰ってくれる殿方がいれば、お嫁にゆくのもよいかもしれません」
清信はわずかに口ごもったあと、ぎこちなく笑みを浮かべる。
「きっと引く手あまたであろうな」
この生真面目な青年でもこんな冗談を言うのかと、小菊はおかしくなって笑ってしまった。
「お上手でいらっしゃいますね」
小菊の笑みに目を瞠った清信は、今は亡き友の顔を思い出して目を細めた。
「一目見たときは、全く似ていないと思ったが……笑った顔がよく似ている」
「そのように言われたのは、初めてです」
子供の時分に分かれたものだから、実のところ面影は遠い。
だからこそ、大切な兄に似ていると言われた小菊は心から喜んだ。
「心配はいらない」
まだ兄のことを考えていたから、小菊は清信の言葉が何を意味しているのか分からなかった。
聞き返すのも忘れて、すっくと立ちあがった清信の背を見上げる。
遠くの空がいつの間にか、うっすらと白みはじめていた。
「小菊どのさえよければ、責任を取る甲斐性くらいは持ち合わせているつもりだ」
「え……」
信じられずに、小菊の口から声が漏れる。
清信は広い背を小菊に向けたまま、振り返らなかった。
そしてそのまま、木の影から朝日の中へと踏み出していく。
「長旅になる。まずは世話になった寺に礼をせねば」
小菊は返事ができなかった。それでも立ち上がって、後を追う。
まだ洞の空いた心の痛みは、すこしだけ冷たさがぬるんでいて。
(待っていてくださるだろうか。わたくしが乗り越えるまで)
喪失の痛みは簡単には消えない。そして完全になくなることはない。
小菊はまだ穴の縁にいる。それをわかっているから、清信はああ言ったのだ。小菊が、心に空いた穴へ転げ落ちてしまわないよう、そっと袖を引いてくれた。
待っていてくれなくてもいいと、小菊は思った。
朝日が昇りきったときには、雨はもう止んでいた。