第1話《桜の舞うなかで……》
始まりの季節は、温かな旋律と共にやってきた。
風に舞う歌声が戯れるように、桜の花弁たちと踊っていた。
鮮やかに彩られた空が、青く輝いている。優しい光に満ち溢れるようにして、俺の心に澄んだ歌声が沁み込んで魅了していた。
爽やかな薫りが鼻腔を擽っている。脳裏にはなぜか、幼いころの辛い過去が浮かび上がっていた。
七つ上の兄からの虐待。撃ちつけられる堅い拳の感触が、兄から発せられる醜悪な悪意が、幼い俺の心を蝕んでいた。疾うの昔に忘れ去っていた記憶が、なぜだか知らないが胸を掠めている。
そんなことを知る由もなく彼女は、ひとり桜を見上げてただ歌っていた。
美しいその容姿は、見るものの心を甘やかに惑わせて魅入らせる。華奢な身体のラインは女性らしい柔らかさを想起させて、不意に護りたいだとか、抱き締めたいという欲求を呼び起こさせる。肩甲骨まで掛かる長い髪が嫋やかに、風に戦いでいる。唐突に込み上げるその感情に驚きながら、俺は彼女を只々、一向に見つめ続けていた。
どこか哀しそうに、寂しそうに、彼女は歌っていた。憂いを帯びた歌声が、澄みながら春の空気を震わせていく。
いつまでも、いつまでも、彼女の歌声に聞き入っていたかった。
「姉ちゃん、I'sのsihomiやないん?」
不逞にも下卑た笑みを張り付けた筋肉質の男が、彼女の歌を遮っていた。不貞で不純な動機で、声を掛けたことには間違いない。胸をかき毟るように、怒りが渦を巻くように、殺意の蛇が蠢いた。
「違います。人違いです……」
不謹慎、極まりないことだが、戸惑った声が美しくて愛おしい。
生まれて初めての一目惚れ。べた惚れ――という奴だろうか。早鐘をうつ鼓動を抑えながら、彼女の元へと駆けよる。
「嘘つけ。その声聴いたら、本物やって解る。不倫して芸能界、追放されたんやろ?」
反吐が出るほどに心ない男の言葉に、怒りが沸点にまで登るのを堪えながら男の肩を叩いた。