転生悪役令嬢は、トラウマも思い出す
「あの、浩然さま? どうしてこの体勢なのでしょうか?」
しっかり「お仕置き」した後、浩然さまは私の髪に顔を埋めてきた。今、なぜか浩然さまの膝の上にのせられている。武官らしく、しっかりと筋肉のついた腕がお腹に回されていて、羞恥の限界値を突破しそうだ。
「なんだか琳霞が、迷子になった子どもみたいな顔をしていたから」
「え?」
迷子も何も、ここは私の部屋ですが。
「この世界にたった一人取り残されたかのような、とても寂しそうな顔」
……気づいてたのか。目覚めてからというもの、自分という存在がどういうものなのかわからなくなって、立っている地面さえあやふやであるかのように感じていた。
「心配しなくても、琳霞は琳霞だ」
「んっ!?」
口付けは何回もしたけど、こんなに激しいのは初めてかもしれない。だけどなぜか、息継ぎはできる。キスの合間の、息の吸い方を知っている。
そうか、以前の私もこの人と何度もキスをして、やり方を知っているんだ。ぼうっとした頭は、浩然さまが唇の間を割って舌を入れてきたことで覚醒した。本能的に涙が滲む。
「あうっ……!」
浩然さまの舌は熱くて、体がぞくぞくした。不快ではない、むしろー
舌と舌が絡み合って、みだらな音がする。自分が自分でなくなってしまったようで、いつもは必死に制止する、服の帯を解こうとする手を止めるのも忘れていた。獲物を狩る肉食獣のような瞳から、目が離せない。
「甘い声も、可愛い泣き顔も、何一つ変わっていない」
近くの寝台に押し倒され、浩然さまも服を脱いだその時ー
「……それ以上はダメです、若様」
「……」
「睨んでもダメです」
私が恥ずかしいことをされても、大抵は静観している女中が制止してきた。
「これ以上おいたが過ぎますと梓宸坊っちゃまに報告させて頂きますが」
渋々、本当に渋々、服を着せ、髪を直してくれた。私は大人の階段を昇らずに済んだらしい。……ちょっと残念だと思う私は、やっぱり破廉恥なのかもしれない。
◇
凍てつくような、寒い朝。朝餉を食べ終え屋敷の中を散策していると、なんだか「郭関の間」に心惹かれて中に入った。「郭関の間」には歴代当主やその家族の姿絵が飾られている。
建国から三百年余、同じだけの歴史を郭家も歩んできた。「お父様」は第十八代当主。私は「お父様」にまだ一度も会っていない。……記憶を失った出来損ないの娘になど、用はないのでしょうね。浩然さまは「郭大臣は良くも悪くも貴族的な方だから、あまり気にする必要はない」と仰ってたけど。
いかめしい顔の「お父様」の絵の隣には、その妻らしき華やかな美女の絵もあった。
綺麗に微笑む、絵の中の女性。私はこの人を知っている。いいえ、この人はこんなに幸せそうに笑ってはいなかった。いつもいつも泣いていた。
ーああ可愛い琳霞、おまえはわたくしのようになってはだめよ。
そうだ。お母様は臨終間際にそう言い遺してこの世を去ったのだ。
途端、洪水のように記憶が蘇った。
日本で生きた「はな」。「大帝国記」。「すずちゃん」。浩然。お兄様。陛下とお姉様。お父様。笙鈴。宇航様。そして封印していた記憶さえも。
両親は恋愛結婚だったという。お兄様が幼い頃はとても仲が良い夫婦だったらしい。だが、お姉様や私が生まれる頃にはお父様の心はお母様から離れ、幾人もの女性を渡り歩くようになっていた。
後継教育で忙しいお兄様、皇后教育で忙しいお姉様と違い、比較的暇な私を捕まえてはお母様は呪詛のように恨み言を繰り返していた。
……初めはお母様も、いつかお父様が自分のもとに戻ってくることを信じていた。滅多に家に寄り付かないせいでお父様の顔を見たことがなかった当時の私に、お母様は頬を染めてお父様のことを話したものだ。まるで少女のように。
-旦那様はね、とっても素敵な方なの。あの方に憧れている令嬢はたくさんいたのよ。
-旦那様は他の誰でもなく、わたくしを選んでくれた、世界で一番幸せな女だと思ったわ。
-旦那様は必ず帰ってきてくださるはずよ。あの方に選ばれたのはわたくしなのだから。
けれど待って待って待って、お母様は疲れてしまったのだ。私が六つの時にはお母様はお父様のことを話さなくなっていた。
-お前は恋などしてはダメよ、琳霞。藍洙は愚かにも赦鶯殿下に恋しているようね。馬鹿な子だこと。どうせ裏切られるだけだというに。
恋とは愚かしいもの。心は捧げれば捧げるほど傷つくもの。お兄様が護衛として同行したお姉様と殿下の外遊の最中に容態が急変したお母様の最期を看取ったのは私だけだった。お父様は最後さえ現れなかった。お母様の溢れんばかりの恋心にお父様が返したのは何一つなかったのだ。その時私は決めた。私は恋はしない、と。
予定を繰り上げて急遽帰ってきたお兄様とお姉様に挟まれて初めて会った「お父様」は厳しい顔つきの男性だった。お父様を見た途端、お母様の最期が思い出されてボロボロと涙が止まらなかった。「郭家の娘が情けない」と吐き捨てたお父様を赦鸞殿下がたしなめ、浩然が涙を拭いてくれた。泣きすぎで頭が痛くなって痛くなり、三日ほど寝込んだ後、お母様の記憶はほとんど消えていた。
◇
どうして忘れていたのだろう。恋とは愚かなもの。ただ心をすり減らすだけのもの。何より恐ろしいもの。あんなに恋したお母様は、失意のまま生涯を終えた。
浩然。
私は彼のことが、本当に好きなの? それは兄への親愛ではないの? ただ優しくされたことが嬉しかっただけではないの?
昨日まであんなに好きだと思っていた彼。浩然への恋心すらまやかしかもしれない。まやかしでなければならない。お父様とお母様だって最初は両思いだった。浩然がお父様のようにならないとどうしていえるだろう。
「お嬢様? 李家の若様がいらしてますが」
「体調が悪いの。お帰り頂いて」
翌日花束を持ってまた訪ねてきてくれたらしい浩然を「誰にも会いたくない」と追い返した。翌々日、同じ方法を取った。三日目の夕方、浩然を拒み続ける私を訝しんだお兄様が部屋まで来た。
「浩然と何かあったのか? 何かされたとか」
「いいえ、何も」
彼は何も悪くない。
「浩然がだいぶ落ち込んでるから、そろそろ会ってやった方が……」
「会いたくない」
会いたくない。会えば恋を否定できなくなるかもしれない。本当に愚かな女になってしまうかもしれない。
◇
……この家の防犯システムはどうなっているんだろうか。なかなか会おうとしない私に業を煮やした浩然が強行突破してきた。後ろには疲れきった顔の女中一名。……お疲れ様。そしてごめんなさい。
「琳霞、君は私の許嫁だ」
「……知っているわ」
退路を探して入口の方を見ると、スっと目を細めた浩然によりあっさり塞がれた。何ですか、その椅子は。一歩一歩近づいてくる彼に思わず身を引いたのが悪かったのか、急激に距離を詰められ腕を引かれた。押し倒された後に感じた柔らかな布団の感触に、初めて危機を感じる。
息遣いが聞こえる。長いまつ毛が触れる。……彼の、心臓の鼓動が聞こえる。
私を寝台に縫い止めるように覆いかぶさったまま、いつもより少し低い声で囁いてきた。
「いいや、わかっていない。君を娶るために私がどれだけ努力したか、どれだけ君のことを……」
「……恋なんて、愛なんて、いつかは変わってしまうものよ」
お兄様やお姉様から与えられる愛情は、「親愛」だから永遠でいられる。けれど私と浩然は他人だ。変質してしまわないと、どうして言えるだろう。
「……そうか。じゃあ、もう良い」
今までで一番冷たい声。
こんな面倒臭い女、さっさと見切りをつけてほしいと思う一方で、彼が他の女性と寄り添うところを想像するだけで、胸がズキズキと痛む。自分のことなのに、自分ではどうしようもない。
ふと顔を上げると、浩然の目はかつてないほどに光を失い、翳っていた。歪んだ笑みのまま、転移陣が描き出される。
「浩然……?」
「若様、おやめください!」
歪に笑う浩然が私に手を伸ばそうとしたその時。
「落ち着きなさい、浩然!」
土人形が浩然の首根っこを掴んだ。使い手に文句を言おうと、こちらの背が凍りそうなほど冷たい表情で後ろを振り返った浩然は刹那、「帝眼」に射すくめられた。
「龍帝が末裔、帝国皇帝の名において命じる。李 浩然、転移陣を閉じろ」