Summer.
彼の青春はテニスで始まり、テニスで終わる。そんなひとりの高校生のストーリー
気が滅入るような暑さだった。照りつけるような太陽の日差しの元に響くのはアブラゼミの鳴き声と吹奏楽部の演奏の音、そして目の前で部活に勤しむテニス部のかけ声だ。
コートの中は昨晩降った雨のせいで蒸し風呂状態となり、砂のみ反射による影響でこの世の地獄と化している。そのような状況下、北川雅之の体は脱水症状による痙攣とめまいを起こしていた。彼は木陰で氷を目一杯詰めた氷嚢を額に乗せ、目一杯流し込んだスポーツドリンクが体に巡るのを待っていた。
「どうしたの?」
蝉の鳴き声の隙間から、ある女子生徒の声が彼の耳へと入ってきた。雅之はその清涼剤のような声に反応し氷嚢を顔から持ち上げる。そこにはテニスラケットを小脇に抱えた東田彩奈がこちらを伺っていた。
「ああ、ちょっと無理しすぎた」
雅之はとってつけた笑顔で応える。
「無理しちゃだめだよ。まだ足もそんなんだし」
彩奈はラケットで彼の左足を指す。蓑虫状態のテーピングにまみれたその左足は、つい10分ほど前まで痙攣していた。
「ありがと」
ぶっきらぼうに雅之は言い放つと、体をゆっくりと起こした。視界に飛び込んできた灼熱のクレーコートの中では、ライバル達が汗を滝のように流しながら、蛍光色のボールを追いかけている。
彼のテニス人生は実は長い。小学生になる前から「テニスバカ」としか形容できない父親の影響で、自分の体の半分ほどもあるラケットを持たされ、必死に振り回していた。彼小学校高学年になるころには、ジュニアの県大会で優勝し、途中で負けてしまったが全国大会にも出場した。しかし、中学生になるころにはケガにも悩まされた。人間の体とは不思議なもので一カ所どこか悪くすると、連動するかのようにあちこちボロが出てくる。雅之も例に漏れず、最初は左足の疲労骨折に始まり、膝、腰と痛めてしまった。
だが、ケガに悩みつつも彼はトップを守り続けた。だが先日のインターハイ、彼は一回戦にて脹ら脛の肉離れに苛まれ、不本意な結果でコートを後にしていた。
「ほら、見てよ!」
彩奈がA4の紙をポケットから取り出し、嬉しそうに雅之に見せる。それは次の大会のトーナメント表だった。夏の個人戦…三年生は出場しないが、秋から冬にかけての全国ウィンタートーナメントの予選でもある。彩菜が見せてきたトーナメント表には、県内のテニス女子の名前が米粒の大きさで羅列されていた。
「あっ…」
雅之は彼女の名前を見つけた。シード枠…といっても島中の第七シードだが、そこには確かに「東田彩奈」と記されていた。
「すげえじゃん」
雅之は笑顔で言った。
「ありがと!」
彩奈はとびきりの笑顔でそう言った。小麦色に焼けた肌とそこに白く光る彼女の八重歯を纏った笑顔は、夏の日差しがスポットライトのように照らしていた。
「北川君は?」
彩奈はトーナメント表を雅之から受け取ると、四つ折りに畳ながら尋ねた。
「もちろん第一シード」
当たり前のように雅之は応える。人によってはイヤミにしか聞こえない言い方だった。「やっぱりすごいね、流石全国経験者だよ」
彩奈は素直に感心してそう言った。
「でも、どうしてこの高校にしたの?北川君なら県外への進学も出来たんじゃ…」
ふと疑問に思ったんだろう。小、中学と全国大会に出てインターハイにも行った人間が、何故決して強豪校ではないこの学校へ進学したのか。
「テニスはどこでも出来るさ」
雅之はそう言って自分のラケットをクルクルと回す。
「少しは勉強もしたかったんだよ。オレ、テニスばかりを見てきたけど気がついたら周りはお洒落もしてるし面白いテレビの話とかゲームの話もしている」
彼女は無言で雅之を見つめた。
「あいつを見ろよ」
雅之はラケットの先を二番コートに向ける。そこには同級生の吉田幸彦が後輩とにこやかに話していた。
「オレはあいつが羨ましい」
「かっこいいから?」
素朴な意見に素朴な疑問をぶつける彩奈はどこか天然ぼけなのかもしれない。
「…そうじゃないって言ったら嘘だが、なんて言うか…」
ぽりぽりと雅之は頭をかく。幸彦は勉強も出来て国立大学を志望しているの雅之は知っていた。それだけじゃない、彼は持ち前の人当たりの良さで後輩に慕われていた。大会となると、部内で圧倒的な強さを誇る雅之がスターとなるが、普段の部活動での中心人物は常に幸彦だった。そんな彼に、雅之はどこか憧れていた。
「まぁ、何となくわかるよ。わたしは」
彩奈も何となくだが、雅之の意図を感じ取ったようだった。
「それにあいつは、ものすごい努力家だ」
雅之は三年前、中学二年の春の大会を思い出しながら彩菜に語った。
「初めて幸彦とあったのは中学二年のときの県大会だったんだよ。アイツはまだテニスを始めて一年経ったか経ってないかだった」
当時既に中学二年で県内では負け知らずだった雅彦は、第一シードで二回戦からのスタートだったことを思い出す。実績のない幸彦は第一シード下、一番弱い選手がエントリーされる場所だった。
「6-0(ラブゲーム)で勝った。幸彦の奴、あの時はサーブもまともに入らないし挙げ句の果てにはアンダーサーブも使ってたよ」
彩奈は黙ってそれを聞いている。
「だけどさ、大会が終わってもう暗くなる頃、練習用のコートの前を通るとさ、コート中にボールまき散らして、アイツがずっとサーブの練習してるんだよ。他の人達多分コート使えなかったぜアレ。」
「そっか…だから吉田君あんなサーブに熱心なんだね。」
常日頃から後輩にサーブの大切さを力説する幸彦の姿は、部内でも有名だった。
「格好良すぎるよ、アイツ」
雅之はそう言って、ポケットサイズのノートをカバンから取り出し呟いた。
「38戦38勝」
不思議そうに彩菜は首を傾げる。
「高校に入ってから、幸彦とやった試合。1セットマッチ、3セットマッチ、8ゲーム…大会や部内試合、練習試合全てあわせてだけどオレは勝った」
「やっぱり北川君強いじゃん、それ自慢かな?」
「いや、そうじゃない」
彩奈の皮肉を無視して雅之はペラペラとノートをめくる。そこには試合のスコアだけではなく、細かなゲーム展開全てが記されていた。
「アイツは確実に強くなってる。試合をするごとに弱点が減っていってるし、どんどん試合時間が長くなってるよ」
はぁ…とため息をつく雅之の顔には羨望と危機感が混じった表情が浮かんでいた。
「この前のインハイの予選でも、国際大学付属の西宮に言われたよ。アイツ、幸彦のことコテンパンに倒したくせに、『うちの学校にきていればなぁ』って」
「そっか…本当に吉田君は努力家なんだね」
彩奈は驚いた表情で言った。県内屈指の強豪校である、国際大学付属高校の西宮は昔から雅之のライバルだったことで有名だった。いつも県内の大会では準決勝、もしくは決勝戦で雅之と西宮は当たっていた。その西宮にそこまで言わせるなら本当に幸彦は強くなってるのだろう。
「まぁ、オレは負けないけど」
雅之は最後の意地でそう言うと、コートに向かった。
「もう大丈夫なの?」
彩奈は心配そうに雅之に言った。
「一昨日までこいつのせいで二週間休んだんだ、負けてらんないよ」
雅之はラケットで、左足を叩きながら言う。
「無理しないでね。私、北川君もすごい努力家なの、知ってるから大丈夫だよ」
「え?」
雅之は何が大丈夫なのかはこの際気にならなかった。
「だって、試合の度にそんなノートつけて分析してるんでしょ?普通の人はそこまでしないよ」
雅之はさっきのノートを思い出す。
「それに、部活の後図書館で勉強してるのも知ってるんだから」
彩奈の思わぬ発言に、雅之は顔から火がでるような恥ずかしさを覚えた。テニスだけじゃなく、勉強も頑張るためにわざわざ国際大学付属高校の推薦を蹴ってこの学校に来たことは、誰にも言っていなかったからだ。
「お前、どこでそれを…!」
「秘密。私もがんばろっと!」
彩奈は小悪魔のような笑顔を雅之に投げかけると、スラッと伸びた足の踵を返し、女子が練習するコートへ走っていった。彼女の後ろ姿を、雅之は間抜けな顔で見つめていた。
今日も地獄のような暑さが続く。この学校に来て良かったなと、雅之は改めて思った。