三姉兄妹②
碧輝が次に目覚めたのはお昼を過ぎてからだった。よほどあの刺激臭が効いたらしいのか、碧輝は長時間の睡眠にもかかわらずとても疲れたような顔つきをしていた。
「起きたか」
黄乃が特に心配そうにするわけでもなく声をかける。
「まあ、何とか……茜は?」
「茜なら『不審者がいないか警邏するのだ』とか言って街へと繰り出したぞ」
「え! あの口臭で?」
黄乃は従容として頷いた。
その仕草を見るなり碧輝は項垂れ、盛大にため息を洩らした。
「茜は人殺しでもするつもりか」
「どうだか。ガムでも噛めとメールしてはどうだ」
確かに。にんにくの口臭にはブレスケアぐらいしか効かないと思い込んでいたが、なるほど、別の匂いを放つもので塞いでしまえばいい。
野保家の次女、黄乃は小学五年生ながら非常に聡明で、頭の回転が速い。高校二年生にもなりながら阿呆を具現化したような長女、茜とは月とすっぽん、天と地ほどの差だ。
しかし、黄乃にも問題があった。それを知るのは、もう少し後でもいいだろう。
碧輝はキッチンの近くに置いていた携帯を取り、指をそそくさと動かした。
「それいい考えだね。試してみるよ。『ガム持ってるならとりあえず噛んで』と……。よし、送信完了」
「傍から見れば随分と物騒なLINEだな」
「まあ、内容が伝わればいいんじゃない?」
スマホの画面を閉じ、碧輝はようやく一件落着と言わんばかりにテーブルのイスに腰を下ろした。目の前には朝から置きっぱなしでカチカチになった目玉焼きと、綺麗な球形の味噌が底に鎮座している味噌汁があった。いずれも碧輝の朝飯であり、同時に昼飯である。
碧輝は底の味噌を安穏とかき回し、一口啜った。衝撃の冷たさに一瞬顔が窄む。
「あーあ、味噌汁冷めすぎてコールドドリンクになっちゃってるよ」
「自業自得だ。自分が姉の息ごときでハァハァしているからだ」
「ハァハァはしてない」
「似たようなものだ、白目を剥いて痙攣するなど下賤にも程があるぞ、我が兄よ」
確かにその状況を想定するとなかなか悲痛な気持ちになる……が。
「そんなこと言われてもなぁ……茜の息の臭さ、申し訳の立たない臭さだったよ? 強いて喩えるなら……カバのおならとヤギの糞を足した感じ」
「弱々しい比喩だなあ……そんなもん唾でもつけとけば治るぞ」
「治らないよ! っていうか怪我じゃないし! 全く僕の話聞いてなかったし、馬の耳に念仏だよ」
「言葉が通じないなら、行動で示せばいいのだ」
「行動、だって?」
碧輝は首をかしげた。あの絶体絶命の状況で、自分はどんなジェスチャーをするべきだったのか。
「そうだ、ビヘイビアーだ」
黄乃は口を真一文字に結び、強く頷いた。残念なことに口元にご飯粒がついていたので迫力は台無しになっていたが。
「小五なのに難しい英単語知ってるね」
「これしき知らぬとは野保家の恥だ」
「多分茜は知らないと思うけど……」
「茜はド阿呆だからほっとけ」
高校二年生が小学五年生にド阿呆と言われるとは。茜の脳味噌の残念さが明瞭に窺える。
「しかし、そんなことは今、どうでもいい……ところで兄よ、自分がそのビヘイビアーを開始するに当たって、TPOを考えたことはあるか?」
「TPO? どこかで聞いたような、初めて聞くような……」
「考えたことがないのか、行き当たりばったりなやつめ。そんなことだから思慮が浅いと常々揶揄されるのだぞ」
「そんなこと言われたの初めて……じゃないかも」
黄乃に散々言われているのか。思い出して泣けてきた。
涙が出そうになるのをグッと堪え、碧輝は話を続けた。
「で、そのTPOって何なの?」
「まったく、これだから最近の若輩者は……つまりTPOは、T=time P=place O=occasionからなる用語だ。本来は家庭科の時間で衣服の着用に際して頻出する単語なのだが、今回はジェスチャーのとして応用が出来る」
「黄乃……本当に小学五年生?」
黄乃はもともとこういった抽象的な考えをさらりと言ってのけるきらいがあった。それだけに謎発言も多いが。
「ここからが本題だ」
黄乃は自らのメモ帳の一枚を千切ると、碧輝の目の前に差し出した。クマの絵がプリントされている可愛らしいメモ帳だ。
「このクマかわいいね」
「そ、そんなもんどうでもいい。かの状況を切り抜けるための方途を、つまりTPOに沿ったジェスチャーの形をその残念な脳味噌で考えてみろ」
「黄乃……本当に僕の妹だよね?」
ストレートにけなされた碧輝は肩を落としたが、しかしあれやこれやと手を動かしながら思案した。あの時はバッテンを作って通じなかったから、それ以外で茜に通じそうな、TPOに適したジェスチャー。
「あっ!」
碧輝は、はたと閃いた。
「鼻をつまんで嫌悪感を顔で示すとか?」
しかし、黄乃は首を縦に振らなかった。
それどころか、柳眉を逆立て、凄絶とした様子で碧輝に怒号した。
「笑止! ついに愚人に成り下がったか! 兄よ、この黄乃をからかっているのか?」
突然の黄乃の憤慨に碧輝は反射的に仰け反った。
「ええ? そんなつもりは毛頭ないけど……。あと呼称を『兄』にするの止めようよ……」
「不届き者め、そんなつまらん答えからは笑いもユーモアも生まれんぞ」
「何か趣旨変わってるし。黄乃はどう考えてるのさ?」
「ふっ、もう言ってもいいのか?」
「な、なんだって?」
刹那、黄乃の双眸が燦然と輝いた。その瞳はまるで獣を眈々と見据える百獣の王のよう。碧輝は悟った。果たして英智はここに存在したのか、と。
黄乃はおもむろに口を開いた。
「胸を揉め」
「できるかっ!」
碧輝のスマホが震えた。実にタイミングが良かった。