釣り
釣り
「あそこに男がいるよ!」
「独りで何してんのかしら?」
「行ってみようよ!」
嬉々として小娘たちが駆け出した。
そこは原っぱのようになっていて彼女らは背後のこんもりと樹木が生い茂る森から飛び出して来て湖のほとりでぽつんと床几に座っている男に向かってゆく。
そんなこととは露知らず男は花鳥風月を楽しみながら脇目もふらず釣りをしていた。 そこへ若い女たちの笑い声が近づいて来たものだから心の平安を失った男は、度も失って、そわそわし出し、釣り竿を握る手が強張った。
「こんなところに若い娘が・・・」
そんな思いで心の中が一杯になって怪訝な面持ちとなり、甚だ心外に思われた。
それであたふたしている内に娘たちの会話が明瞭に聞き取れる位になると、浮きを見る目の視点まで定まらなくなって来た。
「あっ、そうか」
「そうだ、釣りしてんのよ」
「えっ、なあんだ、釣りか」
声はいよいよ近づいて来て男のすぐそばまで来ると、男は声からしてほんの餓鬼じゃないかと強いて見縊って頓着しないように振り向きもせず片方の手で頬杖をついていた。
そこへ一人の娘が突然、「釣れますか?」と若年らしい可愛らしさで媚びるように問いかけて来た。
男は少しばかり狼狽えたが、堅い体をひねって振り向くと、上目遣いで娘を見た。
すると、山紫水明の風景と溶け合う程の見目麗しい小顔が男の目に飛び込んで来た。 男はまさか、こんなところでこんな娘と出会えるとは夢にも思わなかったので驚いて他の3人の視線も気にしながら答えた。
「まあ、そこそこね」
と丁度、その時、釣り竿を持つ手に少し手ごたえを感じた男は、浮きの方に向き直ってみると、浮きがピクピクと上下運動をしていた。所謂サワリの状態だったが、周囲の娘たちに惑わされていた男は、つい早とちりして釣竿を上げてしまったので釣り針は魚の口元を掠めて水面から閃光を放ちながら現れた。その途端、男は上体の重心が後ろに掛かるなり床几ごと倒れ掛かるも何とか踏みとどまった。
それを見ていた娘たちの歓声は、俄かにせせら笑いに変わった。にも拘らず娘たちは然も優しそうに装って男に慰めやら労りの言葉をかけた。
女の偽善である。男は重々わかってはいたが、悪い気はしないものだ。何せ、一瞥しただけだが、他の3人も可愛く見えたからカワイ子ちゃんに囲まれていると思うだけでも幸せなことなのにその子らから優しく声をかけてもらえるのだから然もあらん。
男は娘らに励まされもして気を良くしながら釣り糸を再び垂らし、今度こそ良い所を見せようと意気込んだ。
しかし、意気込んでばかりではいけないと気づいて冷静に臨まなければと思っていると、浮きが少し下がった。そして更に早く下がったところでアタリだと思って釣り竿を引っ張り上げてみると、釣り針が見事に口に食い込んだらしく魚を釣り上げることに成功した。
そうなれば、娘らは調子が良いものでキャッキャキャッキャと騒いだりパチパチパチと拍手したりして喜んだ。
男も表情がほころび、脂下がる始末だ。
釣り上げられた魚はと言うと、太陽の光を浴びた鱗をキラキラと輝かせていたが、目玉は墨汁のように黒く濁っていた。
男は手慣れた手さばきで魚の口から釣り針を上手に抜いてやって魚を魚網の中に入れた。
そこへ娘たちが寄って来て、すごいすごいなぞと言って戯れだした。その内の一番背が高い娘が男に聞いて来た。
「これ、どうするんですか?」
「放してやる」
「えっ、食べるんじゃないんですか?」
「かわいそうだろ」
「それなら何故、網に入れるんですか?」
「今日、一日で何匹釣れたか確かめる為さ」
ここで一番横着そうな娘が魚網の中を覗き込んで言った。
「えーと、一二三四匹か、あっ、丁度いいじゃん!ねえ、お兄さん、このお魚さんたちで私たちと一緒に野外パーティーしない?」
「えっ!野外パーティー?」
「うん、あのね、このお魚さんたちを焼いてみんなで食べちゃうの!」
「はあ?」と男がきょとんとすると、娘たちは一斉にはしゃぎ出し、賛成!賛成!やろう!やろう!なぞと言い出した。
男が魚網の中の魚たちを見ながら哀れに思っていると、彼女らは集まってひそひそ話をし始め、ふふふと一笑してから一番背の低い娘が言った。
「私たち、今からあの森の中へ行って小枝とか木の葉とか燃える物を集めてきますから準備しててください!」
「えっ、準備って」と男が戸惑っている内に娘たちは申し合わせたようにキャーキャー騒ぎながら一斉に森の方へ駆けて行った。
「お~い!」と喚ばわって立ち上がった男は、杭で打たれたように棒立ちになって途方に暮れてしまった。
男は辺りが元通りになって小鳥のさえずり、湖のさざなみ、そして木の葉や草花のそよめく音が心地よく聞こえるようになったので、嗚呼、矢張り、これでなくちゃいけないとしみじみ思った。反面、娘たちが戻って来ることを願う自分も意識した。しかし、魚網の中を見ながら、「こいつらを殺すなんてとても出来ない。それに焼くと言っても串刺しにする適当な棒もないし、どうしろって言うんだ」と考えている内に娘たちの企画した事がアホらしく思えて来てどうでもよくなり、再び釣りを続けることにした。
そうして男は娘たちを待っていたが、いつまで経っても来ないので、俺はからかわれていたんだと気づくと、無性に腹が立って頭に来た。
「嗚呼、あんなに可愛いのに・・・」
そう思うと、荻の上風が妙に冷たく身に染みた。