血の香り
その後きちんと医師に診てもらい、手当てを受け、部屋に戻ろうとすれば影霧が前から歩いてきた。
ことはは、影霧に急いで駆け寄って先ほどの犬のことを聞いてみる。
「あの、影霧さん、さっきの犬は…。」
「はい。無事、保護いたしました。母犬が腹部に怪我をしていたのでそれを治療しました。今は納屋にいます。」
「ありがとうございます。よかった、」
ほっとして、胸を撫で下ろした。
「ことは様、腕の怪我の方はいかがですか?先ほど楓の方からは骨などに問題はないとは聞きましたが…。」
「あ、大丈夫です、お医者様が痛み止めを塗ってくれて、だいぶ痛みも治まってきました。血ももうほとんど止まってきていますし…。ご心配おかけしてすみませんでした。」
「いいえ。ですが、ことは様にお怪我をさせてしまうなんて、私がもっとことは様に気を配っていれば事前に防げたはずでした。大変申し訳ありません。」
逆に謝られてしまったことはは、困ってしまい、顔を上げるように言う。
「影霧さんは、悪くないです。私が不注意だったのだし、これは私が悪いんです。」
「いいえ、私が…」
「ほんとに大丈夫です!とりあえず大丈夫なので、お互い気にしないってことにしましょう!そうしましょう!」
このままでは永遠にお互いに謝ることが続いてしまうと思ったことはは、そういってその話題を打ち切る。
影霧は少し不満げな顔をしたがそれ以上そのことについて、何か言うことはなかった。
「あ。あの、犬は納屋にいるって言ってましたよね。見に行ってもいいですか?」
「……また、お怪我をしては…」
「だ、大丈夫です。無理なことはしないですから。」
「……。では、私もともに参ります。よろしいでしょうか?」
影霧は一応尋ねる形でそういったが、了承しなければ絶対に行かせない、という事がわかった。
ことはが怪我をしたことで、影霧はかなり責任を感じているのだろう。なんだか申し訳ない事をしたと思い、おとなしく影霧と一緒に行くことを了承する。
納屋に着けば、中からやはり子犬の声が聞こえてくる。
母犬を刺激しないようにそっと引き戸を開けて中をのぞいてみる。
中にはやはり、子犬三匹と母犬がいた。
母犬の腹には手当てした跡があり、包帯が巻かれていた。
「母犬の怪我はさほど酷いものではありませんでした。多少血が出ていましたが、すぐによくなるでしょう。」
「よかった…。影霧さん、ありがとうございます。」
「いえ。私はことは様の願いを叶えただけす。」
「それでもうれしかったです。あ、そうだ。この子たちに何か食べ物を上げたいんですけど、なにかあまりものとか、ないですか…?」
ずうずうしいお願いだと、わかっているので恐る恐る尋ねてみる。
「すぐにご用意いたします。少々お待ちください。」
影霧はそういってその場からいったん離れる。
しばらくしたら、少し幅広の底の浅い器を持って来た。その器の中には犬のことを気遣ってか、あまり味の濃いものではなく、白米や味のついてない肉などが乗っている。
あまりものというには、少し豪華な食材にことはは驚く。
「あまり、物…?」
思わずつぶやいた言葉に、影霧は相変わらず穏やかな笑顔を浮かべて答える。
「はい。朝餉のあまりの食材を餌になるように少し手を加えさせていただきました。」
「豪華、ですね…。」
やはり、この家はことはの知っている世界とはかけ離れているのだと、もう一度再確認させられたところで、餌の乗った器を受け取り静かに納屋の中に入っていく。
母犬は納屋の中に入ってきたことはに警戒のまなざしを向けるが、それだけで、動いたりはしなかった。
その様子を確認して、そっと母犬の頭のあたりに皿を置く。
この辺りならばあまり動かないでも餌を食べることが出来るだろう。子犬はまだ母犬の乳を飲んでいるかもしれないから、とりあえず母犬のそばに置いた。
「たくさん食べてそれで早く元気になって。この子たちも、お母さんがいないとすごく寂しがるよ。」
小さな声で、そう話しかける。
母犬はその声を耳をぴんと立てて聞いていた。その様子は先ほどより警戒が解けていて、ことはは少しうれしくなった。
「じゃあね。また、来るね。」
そう言って静かに納屋を出ていく。
外にいた影霧と一緒に屋敷の中に戻る。
「ことは様。よろしければ明日からも犬たちの食事を用意させることも出来ますが、いかがいたしますか?」
影霧は、別れ際にそんな提案をしてくれる。
ことはは、先ほどから何と言って頼んだらいいか悩んでいたところだったので、影霧の提案に頷く。
「いいんですか。お願いします!」
必死に頭を下げたことはに、影霧は微笑む。
「承知いたしました。」
その後一言二言、言葉を交わして影霧と別れ、ことはは部屋に戻った。
血の匂いがする。
夜鵠は屋敷から漂ってくる血の匂いを敏感に感じ取っていた。
妖は人間の何倍も鼻が利く。そもそも体の作りからして、人間とは異なる。
そして、妖とは血のにおいに敏感なものなのだ。争いによる血の匂い。負傷した獲物の血の匂い。それらをかぎ取ることが出来るように。
そして、夜鵠とて例外ではなく血の匂いには敏感だ。
嗅ぎ取った血の匂いは、ことはのものだと気が付く。
以前同じ小屋にいた時、うっかり森で指先を切ってしまい血を流していたことがあった。
それ以外にも、生活していれば多少の怪我を負う事がある。そのたびに夜鵠はその血の匂いをはっきりと感じていたから、間違えるはずがない。
それにしても、今回はかなり血の匂いが濃いようだ。
少しの傷ではここまでの匂いはしない。ならば、ある程度大きな怪我をしたことになる。
「ここの術師は何をしている…。やはり、なにかに巻き込まれている、か?」
ぼんやりとしながら、つぶやく。
今ここでしっかりと思考を巡らせると、まずいという事を今までの経験から知っているため、意識して深く考えない。
主であることはが血を流すという事は大小違いはあれど、危険がその身に迫っているという事なのだ。
封印には、夜鵠に主を守るという本能のようなものを植え付ける効力がある。それ故に主の血の匂いを感じ取れば、主のもとに行って、守らなければならないという、植え付けられた本能が働いてしまう。ある意味では夜鵠に取って、ことはの血は毒だ。
だが、今ことはが流したであろう血の量では夜鵠の意志でその衝動を押さえつけることが出来る程度のものだ。
だから、あまりそのことについて深く考えないようにしながら、己の意志を抑える。
もし、抑えることが出来なければ、ここの屋敷の結界を破ってことはのもとへ行ってしまうだろう。
この屋敷の者が何を思い、何を考えことはと夜鵠を連れて来たかわからない今、術者たちの怒りを買い、争う事になれば何の関係もなかったことはが傷つくかもしれない。
「あの娘は…、ただ静かに暮らしていただけだったのにな。俺を呼びだしたばかりに、巻き込まれたか。憐れな……。」
そこまで思ったが、ふと浮かんだのは人間への憎しみの感情。術師に屈服させられた時の感情だ。
「人間ほど醜い生き物はいない。あの娘とて、例外ではない……。だが……。」
そう思う気持ちがあったからこそ、術師に術を掛けられ、苦しんでいる夜鵠を心配して、伸ばされた手を振り払ったのだ。
人間などに触れられたくないと、あの時ははっきりと思った。
だが、ことはに対しては憎しみのような、荒々しい感情は今はない。
だからといって、好意的な感情が湧き上がってくることはないが。
憐れだ、とは思う。だがそれ以上でも、それ以下でもない。
血の匂いに酔ったかのように、くらくらとする頭で、そのようなことを考えていた。




