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犬と怪我の騒動



だが、ことははその場からすぐに動くことが出来なかった。満永に言われた言葉が頭の中を巡っていた。


術師のことをつい最近まで知らず、今でもあまり詳しいことは聞かなかった。そんな状態なのに、将来この家を継ぐなんてことは考えられない。

ここにきて、ことははとても不安な気持ちになる。知らない世界にただひとり佇んでいるような。右も左もわからない。どこを進んでいいのかわからない。

そんな自分がいると自覚したとき、ふと頭の中に夜鵠の事が思い浮かぶ。夜鵠が今ここにいれば自分は安心できると、無意識のうちに思った。


だが、その考えをすぐに捨てる。ことはは夜鵠のことを傷つけたのだ。優しさを踏みにじる、という行為で。そんなことをことははしたのに、今ここで夜鵠に安心させてほしいなんて、都合がよすぎる。何と自分勝手な考えなのか。

それに、今ことはが夜鵠に会えば確実にあの瑠璃色の瞳に怒りと拒絶を宿して、見られるだろう。ことはにはそれが恐ろしかった。


そのような、暗い想像に押しつぶされそうになったその時、どこからかクンクンという動物の鳴き声なようなものが聞こえる。

ことはは、その声を頼りにあたりを歩き回った。背の低い木が密集して生えている辺りでその声が聞こえてくることに気が付く。

そっとその木をかき分けてみると、そこには薄茶色に三角の耳がぴんと立った雌犬とその雌犬の腹部分に守られるように抱かれている、三頭の子犬がいた。

「あ…。子犬…。かわいい…。」

思わずつぶやいてしまった言葉に、慌てて口をつぐむ。

子育てをしている犬は、とても神経質になっているので少しの刺激で怒ったり、育児を放棄してしまったりするのだ。


そのまま、かき分けた木を戻して立ち去ろうと思ったことはだったが、ふと、子犬の一匹の頭が何かで汚れているように見えた。

泥か何かが頭についているのだろうと思ったが、なぜか気になってしまい、あまりよくないと思ったが思わず手を伸ばす。

そうすると、やはり母犬は唸り声をあげてことはを威嚇する。その唸り声を聞いて一瞬手を止めたが、小さな声で大丈夫だよ、と声を掛けながらもう一度手を伸ばす。

さらに手を伸ばすと母犬は、がぶりとことはの手に噛みついた。


ことははわかっていたことだったが、びくりと手を震わせ、思わず引いてしまう。

だが、引いてしまえば、さらに犬の歯は腕に食い込んで痛みが増す。その後、とっさに反対の手で、頭が汚れていたように見えた子犬を抱き上げて自分の方に連れてくる。

すると、母犬が思わずといったふうに口の力を弱めたので、その隙を見逃さず腕を引く。

引いた腕は赤いものが流れ出ていて、かなりひどい事になっているだろうと予想が出来たが、今それをじっくりとみてしまうと、より痛みが増すだろうと思い目を逸らす。


母犬を見れば、悔しそうな顔をしているが、なぜか立ち上がってこない。子犬を奪われたのだから、こちらに向かってきてもおかしくないのだが、それをしない。

その様子に、なんとなく嫌な予感がしながら、先ほど抱き寄せた子犬の頭の汚れを確認する。

一見黒い汚れが付着しているように見えるが、よくよく見れば、それは血のようだ。念のため鼻を近づけて匂いを確かめるが、やはり鉄くさい、血特有のにおいがした。

パッと見る限り子犬に怪我はないようだから、残りの子犬か母犬が怪我をしているのだろう。


その事に気が付いてしまえば、何とかしたい、という気持ちが強く湧いてきて、どうしたらいいのか必死で考えを巡らせる。

母犬の様子から考えれば、ことはが手を出すのは得策とは言えない。ならば、どうすればいいか。


その場から立ち上がったことはは、手元にいる子犬を片手にもち、屋敷の中に駆け込む。この時ばかりはこの大きな庭が少し恨めしかった。

屋敷の中にバタバタと駆け込むと、その音を聞きつけたであろう、屋敷の使用人が現れるが、ことはの血だらけの腕に、抱えられた子犬を見て何事かと驚きの声を上げる。

「ことは様?!どうされたんですか!そのような格好で……!ああ、怪我の手当てをしなければ…!」

「い、いえ!とりあえず、いいんです。か、楓さんか影霧さんを呼んでいただいてもいいですか?」

「で、ですが…。」

ことはの様子を見てどうしたらいいのかと、迷う使用人にもう一度頼むと、戸惑いながらも急いで呼びに行ってくれた。


しばらくして、影霧と楓、二人が慌てた様子で現れる。

「こ、ことは様!なぜお怪我を?早く手当を…!傷が残ったら大変…!さあ、こちらのお部屋に…、」

楓が半分悲鳴を上げるような声でことはのことを部屋に連れて行こうとする。

影霧も、すぐに薬草を持ってくると言って去って行きそうだったので、ことはは慌てて二人を止める。

「ま、待ってください!こ、この子犬の兄妹かお母さんが怪我をしているみたいなんです。私一人だと、どうすることも出来なくて…。助けたいんですけど…。」

「犬…ですか?」

一瞬の沈黙ののち口を開いたのは影霧だった。

「はい、そこの、背の低い木のところにいるんです。何とか、してあげたいんです…。」

なんとなく先ほどの沈黙で、もしかしたら怒られるのでは、という気持ちがわきあがって語尾が小さくなる。

「……。わかりました。犬の方は私が何とかいします。ですので、どうかことは様は怪我の手当てをしてください。」


影霧がそういってくれたことでことはは、ほっとする。

何とか犬の方は、助けられそうだったので、自分の怪我の方の手当てをしてもらう事にした。抱えていた子犬は影霧が連れて行ってくれたので自分の部屋に入り、楓さんに手当てをしてもらう。


「ことは様、なぜこんなに大きな怪我をされたのですか?これでは、傷跡が残ってしまうかもしれませんよ?」

強い口調で、ことはを見ながら言われた言葉にびくびくとしながら答える。

「あの、子犬が、汚れてるように見えて、もしかしてと思って手を出したんですけど、母犬がやっぱり怒って、噛みつかれたんです…。」

「まあ…!それは当たり前の事です!子育てをしている動物から子を取り上げようとしたら、噛みつかれるに決まっておりますわ!」

「その…。ごめんなさい…。でも、すごく気になってしまって…。放っておけなくて…。噛みつかれるってわかってたんですけど、つい…。」

「つい、ではありません!次このようなことがありましたら楓は、ことは様の後ろについて回りますからね!」


とても怒っている楓に、ことはは小さくなってごめんなさい、と謝る。

「ですが…。ことは様はお優しいのですね…。自分が怪我をしても動物を放っておけないのですから。犬のことは大丈夫です。影霧殿がうまくやってくれますよ。」

さっきまで怒っていたが、怒り終わればそれ以上引きずることなく、楓はことはに話しかけた。

「あ、はい。よかった…。」

ほっと息をついたら、先ほどからじくりじくりと痛んでいた傷がさらに痛み始めたような気がした。そっと傷を見てみるとかなり悲惨なことになっている。これでは痛いに決まっている。

その傷に楓は薬を塗りこみ、包帯を器用に巻いてくれた。

先程より、血が止まってきたとは思うが、まだじわじわと染み出ているため、包帯が血で染まってしまうのは仕方ないだろう。


「とりあえず、消毒と止血をしておきましたので、念のため医師にあとで見ていただきましょうね。」

「え…。お医者様?大丈夫ですよ。これだけ手当していただいたのですから。」

そういうと楓さんはまた険しい顔をして、きっぱりという。

「いけません。悪化して化膿でもしたらどうするのですか。」

気の弱いことはには、はっきりと言われてしまうとどうしても言い返せず、黙ってしまった。




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