朝春と珠希
部屋に静寂が訪れ、ほっと一息つく。
今まで森の入り口で、一人静かに暮らしていたことはにはこの数日間、知らない人間とずっといることに、無意識のうちに疲れていたのだと、気が付く。
「…ん?」
そこまで考えたら、ふとおかしなことに気が付く。確かに今まで一人で森で暮らしてきたが、ここひと月は夜鵠と一緒だった。だけれど、その時は気疲れすることもなく、むしろ安心して暮らすことが出来ていた。それは、どうしてだったのだろうか…。
夜鵠は、ことはとある程度の距離を取っていた。近すぎもせず、遠すぎもしない。ずっと家で一緒にいるわけではなく、時々帰ってきて、一緒にいる。その距離がすごく心地よかったのだ。ことはは、そのことに気が付く。
そして、切なくなる。夜鵠との心地よい距離は、ことはが壊してしまった。夜鵠を傷つけ、不快にさせたから、夜鵠はことはの前に現れる事が無くなってしまった。
悲しさに囚われそうになって、小さく首を振る。今さら落ち込んでも仕方がない。過去の事より、今をしっかりと生きないといけない。
とりあえず、部屋を出て、用意されていた履物に足を通して、庭に降りれば、優しく風がほほを撫でるように吹く。その風に運ばれて、紅葉の葉がことはの足もとに落ちた。
そっとその紅葉を手に取り、くるくると指先で回して遊ぶ。
「きれいな庭…。」
そうつぶやき、紅葉を手に、庭を見て回る。今までこのような庭を見る機会もなかったので、とても楽しい。だけど、あまりにきれいに整いすぎていて、歩いて回って、汚したりしないか心配で、自然とそろそろとした足取りになってしまった。
しばらくの間、庭を見て回り、堪能したら、ふと、夜鵠の事が頭をよぎる。自分はこんなにもいい環境にいるが、夜鵠は今どこにいるのだろうか。
影霧の夜鵠に対する大度から考えると、おそらく、部屋を与えられ、休んでいるという事はないのだろう。
外で一人でいるのではないだろうか。外にいるのなら、ことはの家を出てからずっと、外で寝泊まりしていることになる。それでは、休むことも出来ない。
そう思えば、自然と夜鵠がいないか、探してしまう。ふらふらと庭を歩いていれば、前から人の足音が聞こえた。
気が付いてそちらに視線を向ければ、そこには、六つぐらいだろうか。男の子がいた。
「お姉さん…。だれ?」
突然出会った男の子に、なんだか、庭をふらふらしていた自分が、悪い事をしていたかのように感じて、少し慌ててしまう。
「えっ…と、私は、ことはっていうの。今、お客として、この屋敷においてもらっているの。君は…?」
ことはが自己紹介をすると、男の子は笑顔を見せて、名前を言う
「僕は朝春っていうの。ねえねえ。お姉さん、もしかして父上の言ってた姉上?」
「え…?」
ことはは、朝春が何を言っているのかわからなかった。朝春の父上とは、いったい誰なのか。その父が朝春に言った姉上とは。
「朝春君の、お父様がお姉さんのことを何か言っていたの?」
「うん。えっと…」
「朝春」
そこで朝春が何か答えようと、口を開いたが、遠くから女性が朝春を呼ぶ声が聞こえる。
声の下方向を見ると、とても綺麗な紅葉のような色の着物を纏い、長く伸ばした髪を簪で飾った、少しきつい印象を受ける女性がこちらに向かって歩いてきた。
ことはが朝春と一緒にいることに気が付いた女性は、驚いて一瞬歩みを止めるが、すぐにこちらに歩み寄ってくる。
「こんにちは。朝春が何か失礼をいたしましたか?」
女性は静かな声でことはに尋ねてきた。その声にことはは、一瞬なにかを感じたような気がするが、一瞬の事だったのでそれがなんなのかはわからなかった。
「あ、いえ、少し庭を歩いていたら、朝春君に会って…。少しお話をしていたんです。」
「まあ。朝春がお世話になりました。」
女性は口元に手を当てて、上品にほほ笑む。
「あの、あなたは、朝春君のお姉さん、ですか…?」
年若く見える女性が朝春と関係が深いのだから、兄妹なのだろうかと思ったことはは、恐る恐る尋ねた。
「ふふ、私は朝春の母です。珠希と申します。」
「え…!朝春君のお母様…!それは、失礼しました…!」
慌てて、頭を下げることはに、ころころと笑って答える。
「いいえ。若く見られるというのは、うれしい事ですから。それで、あなたのお名前を聞いてもよろしいかしら?」
そう尋ねられて、自分が名乗っていないことに気付いたことはは、慌てて名乗る。
「私は、ことはです。ここには、お客として置いていただいています。」
ことはの言葉を聞いて、珠希はスッと細めた。だが、ことははそのことに気づかずに、話を続けた。
「あの、ごめんなさい、庭を散策してもいいって聞いたので歩かせてもらっていたんですけど、少し遠くまで来すぎちゃったみたいで…。」
何か言われてしまうかもしれない、とびくびくとしながらそういったが、珠希は、特別気分を害した様子もなく、変わらず微笑む。
「いいえ。満永様がいいとおっしゃったのなら、私がなにか言うことはありません。どうぞ、ゆっくりと散策してください。」
その言葉に、ほっとして胸を撫で下ろす。
「あの、ことは様!よかったら一緒に庭を歩こうよ。僕が案内してあげる。」
朝春は無邪気な笑顔を浮かべて、ことはを誘う。その誘いに少し戸惑って、何と答えたらいいのか困っていると、珠希が朝春に諭すように言う。
「朝春。ことはさんを困らせてはいけませんよ。私が向こうで遊んであげますから。」
その言葉に少し不満そうな顔をした朝春だったが、背を押されて行きましょう、と言われてしまえばしぶしぶ従った。
「では、ことはさん。失礼いたします。」
そう言って歩き去ってしまった。
その場に残されたことはは、何とも言えない気持ちで二人のことを見送る。朝春はいったい何を言おうとしていたのか。それにあの親子、この家に住んでいるという事は、珠森家の臣下の家の人なのかもしれない。
疑問は残るものの、いつまでもここにいるわけにはいかないと、急いで与えられた部屋に戻る。




