6-3
「これはオーバーホールが推奨される」
「……はぁ」
メディカルチェックを受けた瀬砂は、彩人の提案に曖昧な声を挙げた。部屋の暗さと、検査中の所在なさからきていた眠気をなんとか抑え、言われた言葉を反芻する。
オーバーホール、ごく最近に聞いた覚えのある言葉だった。確か機械などを部品単位まで分解し、清掃や劣化部品の交換を行う作業の事である、と彩人は語っていた。手間の掛かる手段だが、たまに行う事によって故障などの予防をする事ができるのだという。
他者の目に見える程の異常である、現状を鑑みれば十分に妥当な判断。しかし瀬砂は訝しげに彩人の事を見ていた。
「確かつい先月くらいにも似たような事を言われてやった気がするんだけど?」
思わず責めるような声色が出る。記憶に新しいと言う事は、比較的近くに同じ事をしていると言う事である。だが説明を聞く限りではそれほど頻繁に行わなければならない物とは思えなかった。そんな疑問が、彼女の不信感を露わにさせる。
「この前の時に古い部品は全部換えたんでしょ? なんでまたそんな面倒な事をするのさ」
「端的に言うならば、部品が古くなっているからだ」
彩人が相変わらずの無表情で出した回答に、瀬砂は呆れと侮蔑を込めて「はぁ?」と声を上げた。まるで水掛け論のように思える言葉だったが、彼はそれに追加するようにパソコンで画像を表示した。写っているのは何かの機械部分のようだった。なんのかはこれまでの会話から既に明らかである。
「本日レントゲンで撮影した、君の機械部分の写真だ。全体的に傷や変形が目立つのは確認できるだろうか」
画面を向けられて瀬砂は中を覗き込む。彩人の言うとおり、各所には決して小さくない傷が多数見られる。それこそ通常の機械なら買い換えを考える程である。少なくとも、たった一ヶ月でなる状態ではなく思えた。
「……とりあえず異常だって言いたいのは解ったよ。で、理由は判るの? どこか故障した場所があるとか」
「その場合は前回のオーバーホールで解決している可能性が高い。直っていない以上原因は機械部分以外にあると考えられる」
彩人は一息つき、視線をパソコンから瀬砂へと戻す。そして、
「理由を知っているとしたら、私よりも君だろう」
ただ一言、それだけを語った。そのままじっと見つめ続ける視線に、瀬砂は僅かな動揺を覚える。的衛 彩人と言う人間は、こんな熱い視線をする男であっただろうか。外見は今までとまるで変わらない。しかし、瀬砂は確かに感じたのだ。この機械のような冷たい佇まいの男の中に、今までは感じ得なかった熱さを。それが何を意味しているのかまでは見当もつかなかったが、一つだけ確信があった。この問いは、誤魔化す事ができない。
瀬砂は無言のまま、瞳を閉じて考える。自らの身に起きている異常、それが機械的な部分ではないとしたら、どこから来るのか。身体に残された僅かな肉体の部分かと一瞬考えたが、すぐに否定した。彩人が作った機械部分にその兼ね合いが考えられていない筈がないし、彼の事だ、そう言った目に見える部分ならば、自分以上に詳しくても何ら不思議ではない。ならば考えられる原因はもっと深い、瀬砂自身にしか知り得ない部分。
「ボクの心に、その原因がある。そう言いたいワケ?」
彩人は何も答えなかった。だが、今の瀬砂にはそれが何よりの肯定なのだと解る。笑い飛ばしてしまいかねない、あまりにくだらない理由だ。心が機械に影響を与える、そんな事があり得るとは瀬砂には考えられなかった。
「……馬鹿馬鹿しい。気持ち一つで機械が壊せるなら、ボクはとっくに対外魔法使いだよ」
気圧されないように語気を強めて吐き捨てる。逡巡したのはほんの一瞬、それ以外の迷いは一切見せなかった自負が彼女にはあった。だが、その僅かな迷いでさえ彩人は見過ごすつもりはないらしい。眼鏡の向こうで眼光が、鋭く光った気がした。
「今、一笑で済ませる事が出来なかった。それが問題の存在している何よりの証左ではないだろうか」
「ッ!?」
しかし、彩人の言葉に瀬砂は思わず身を震わせる。まるで心の中を見透かされた気分だった。そして言われてから初めて気付く。そもそも精神的に問題を抱えていないのなら、最初から「そんな物はない」と一蹴すれば良かったのである。だがそれが出来なかった。彼女は無意識に、心に問題がある事を認識していたのだ。
「私は科学者ではあるが、感情が不要な物とは考えていない。それは時として大きな力を引き出す、人間だけに与えられた極めて重要な要素だ。だが――」
そこまで言って視線でパソコンの画面を指し示す。そこにあるのは変わらず瀬砂の身体を映したディスプレイ。僅かな期間で酷使され、磨耗で限界になったパーツ達だ。
「――大きな力が、その分大きな負荷を生み出す事も無視は出来ない。君の身体は、ここまでの負荷を課してまで何をしていたのだろうか」
彩人の言葉が瀬砂の胸に深く突き刺さる。彼女がこれまで気のせいだと胸の中にしまっていた物、それがついに目に見える形で姿を表してしまった。このまま放っておけばどうなるか、それは瀬砂にはわからない。ただ、命に関わる危険な事態なのかもしれないと言う事はなんとなく想像が出来た。一度、深い、とても深いため息をつく。そして彼女は彩人に向き直って、言った。
「……オーバーホールを頼むよ。今度はそうそう壊れないよう、念入りに」
「瀬砂、君は――」
「ボクはさぁっ!!」
彼女の答えに何かを察した彩人は声を掛けようとする。しかしそれよりも早く、瀬砂の半ば絶叫にも近い言葉が彼を遮っていた。
「ボクはさ、今幸せなんだよ。友達と笑い合ったり、仲間と協力しあったり、周りの人に自分を褒めてもらったり……今までの人生で諦めていた物が、皆手に入ってる。もう死んだって悔いが出来ないくらい」
彩人に背を向けたまま、絞り出すように言葉を綴っていく。涙がこぼれそうになっているのを見られたくなかった。声も必死に作ろうとするが、どうしても震えが止まらない。そんな姿を、彩人はどのように見ているだろうか。小さく「瀬砂……」と呟いたきり、後ろにいるはずの彼の声は聞こえてこない。
「……分かった。君がそう望むのならば、私は全力でそれに答えよう」
少しの沈黙のあと、彩人は今まで以上に堅い口調でそう応え、扉を開いた。彼のラボへ続く入り口だ。中へ入るように瀬砂に促し、自らも足を踏み入れる。しかし、そこへ一歩踏み込んでから一度だけ向き直り、言った。
「だが考えておいて欲しい。今の涙に、どのような意味があるのか」
彩人は踵をかえすと、薄暗いラボの闇へと消えていく。一人きりになった部屋の中で、瀬砂は一人呟いた。
「なんだ……泣いてるの、気付いてたんじゃないか」
今日は彼の意外な所を見せられてばかりだ。ふとそう思う。それは単に彼の態度がいつもと違ったのか、それとも瀬砂に人を見る眼が備わって来たのか。その答えを知る者は誰もいない。だが、どうせならば後者であってほしいと、瀬砂は心から願った。
「大丈夫……ボクは今、満たされてる。満たされてるんだ……」
言い聞かせるように数回口にすると、瀬砂もまた薄暗いラボへと足を踏み入れた……。