3-9
「え、なに……なんで……?」
一同が呆然としている中で、血飛沫だけが派手な音を立てて噴き出している。びちゃびちゃと小汚い音を立てながら、病室だった場所のタイルが赤く染まっていった。横たわる聖愛は頭頂部から真二つに切り裂かれ、噴水と呼ぶにはあまりに不出来な姿を晒している。突然に訪れた衝撃的な光景に、誰もが思考を追い付かせる事ができなかった。
「……イヤアァァアアアッ!?」
初めに反応したのは絵麗菜だった。普段のソプラノには程遠い金切り声が、周囲を埋め尽くす。よほどショックが大きかったのだろう。これほどの凄惨な行為は、瀬砂ですらしたことがない。その瀬砂本人でさえ、彼女の声を聞くまでは完全に思考が停止していた程だ。
『2時方向、上空だ。かなり近い』
彩人の指示に従い、すぐさま右側の空を見上げる。探すのに時間は掛からなかった。目標は間もなく、事もあろうに高笑いを始めたのだから。
「おっさんビビってたからどんなモンかと思ったら、この程度かよ! マジウケル~!」
外面を取り繕わない、ひどく純粋な笑い声が屋上から降りてくる。瀬砂にとってはとても聞き覚えのある声だった。そう何度も聞いた訳ではない、ただの一度が鮮烈に記憶へと留まっている。なおも笑い続ける影を睨みながら、忘れようはずもないその女の名を呼んだ。
「なんでアンタがここに居る……納部 莉理奈ァッ!!」
そう、忘れられるはずもない。鼻につく猫なで声、荒々しく揺れる二房の銀髪、そしてなにより自らの腕を切り裂いた忌まわしい過去。風になびくゴスパンクのドレスを身に纏ったその姿を見ると、瀬砂は突き動かされるように飛び込んだ。受けた屈辱と、聖愛を目の前で殺された怒りを起爆剤にして、力の限り拳を振り下ろす。
「何、お前まだ生きてたの? マジキモイんですけど」
しかし、その拳は莉理奈によって容易く受け止められてしまう。構えられた鎌の柄に拳が重なり、甲高い音が立った。支離滅裂にも感じる軽口も、この場に至っては余裕に取れる。事実そうなのだろう。彼女の手は瀬砂の打撃を受けながら微動だにしない。そのまま鎌を振るうと、瀬砂は容易く弾き飛ばされた。
「おかげさまで快適だよ。これでアンタを叩きのめせる!」
空中で体勢を立て直しながら瀬砂が答える。ビルの一回分程度の落下、彼女にとってはダメージに入らない。奇襲は無意味と悟ると、屋上の高さまで飛び上がって距離を詰めた。小細工なしの肉弾戦が叶う位置取りである。そのまま相手の元までフェイクを織り交ぜつつ駆け寄り、数打の牽制を仕掛けた。
「プッ、なに言ってんの? この前フルボッコにされたくせに」
莉理奈はそんな物を気にも留めず、笑いながら鎌を横薙ぎに振りぬく。力任せな攻撃に身を翻してかわそうとする瀬砂だったが、動こうとした瞬間に身体に違和感を覚えた。身体が、思う程機敏に動かない。異変に気付いた瀬砂は、咄嗟に腕で迫る刃を受け止めるしかなかった。
「ぐぅっ……!」
刃が鉄でできた腕に食い込む。もともとあった亀裂は更に大きくなり、装甲の破片が軽く飛び散った。内側からは露出した回路が火花を散らしているのが見える。その光景を見た莉理奈はまたも嘲笑を繰り返た。
「なんだそれ? 片手ロボットかよ! そんなんして魔法少女かよ、引くわ〜」
煽るような言葉に瀬砂の怒りはさらに増大する。歯をむき出しにしながら莉理奈を睨むが、それも渾身を引き出すには至らなかった。得物を跳ね除けるには出力が足りず、競り合いから抜け出せなくなる。なおも力を込める莉理奈に、瀬砂の腕も限界を迎えようとしていた。
『退いた方が良い。今のエネルギー残量で対応できるとは思えない』
不意に届いた通信で瀬砂ははっとした表情に変わる。気付けばエネルギーは4割弱まで低下していた。そこでやっと、力が出なかったのは、エネルギーを身体が調整しているのだと思い至った。だとしたら彩人の言う事に間違いはない。力で劣る今では、莉理奈を倒す事は叶わないだろう。ここは苦杯を舐める事こそが最善だと、瀬砂は撤退の方法を考えた。
「だったら……引いたまんま帰って来んなッ!!」
力任せに得物を押し付けてくる莉理奈が、着実に瀬砂のエネルギーを奪う。本領でもない彼女が選択したのは、攻撃をいなして隙を突くことだった。刃を抑えていた腕を引き戻し、身を数歩後ろに下げる。競り合っていた力が突然なくなった効果はてき面で、莉理奈は前のめりに身体のバランスを崩した。その無防備な姿勢に一撃を加えるのは容易い。瀬砂は莉理奈の腹目掛けて、勢いよく膝を打ち込んだ。衝撃は四肢に留まらず、莉理奈をはるか遠くまで吹き飛ばす。
「……カハッ!?」
「はぁ、はぁ……子供じみた挑発に乗るほど馬鹿じゃないよ!」
拳を固く握りながら、瀬砂は彼女が飛んでいった方向を睨んだ。莉理奈の誤算は一つだっただろう。彼女の挑発では、瀬砂を怒らせる事はできなかった。いや、瀬砂が怒りで判断を誤るような人間ではなかったのだ。
優れた闘士は怒りの感情を思考から切り離す事ができるのだと言う。長きに渡り、魔法少女の中でも過酷な戦況に身を置いていた瀬砂は、いつの間にかそれと同等の技術を体得していたのである。
『スモークグレネードを転送する。視界を奪った隙に離脱すると良い』
彩人の言葉と共に、頭上からスプレーにも似た缶が降ってくる。瀬砂はそれをあえて受け取らず、床に落ちるのを見送った。接地を合図に煙が噴出し、周囲の闇を更に暗くする。中の状況は誰にもうかがい知れないだろう。視力以外の目を持つ瀬砂意外は。
「絵麗菜、瑠和。一旦逃げよう。ここにいたら、ボクらまでアイツに殺される」
サーモグラフィを頼りに、二人の居場所まで戻る。二人とも先程とほとんど変わらぬ様子でへたり込んでいた。絵麗菜は少し落ち着いたのか悲鳴は止まっていたが、茫然自失状態だ。瑠和もまた魂の抜けたような表情で、真二つに裂かれた聖愛の死体を抱えている。
「絵麗菜はともかく、瑠和までこの状態か……全く、情けないよ」
『君が大概落ち着きすぎている、とも私には見えるのだが』
彩人の言葉は無視して、瀬砂は二人の腰に手を回す。この状態では移動もままならないだろう。瀬砂が抱えていくしかない。幸い、瀬砂は対内の極振りだ。エネルギーが足りてないとは言え、この二人ならば赤子のように軽々と抱える事ができる。肩から担ぎ上げようと力を入れるが、瑠和が思うように持ち上がらない。彼女は、呆けたままにも関わらず聖愛だけは離そうとしていなかった。
「瑠和……そこまでされたら彩人でも助けられない。その娘は置いて行こう」
「……」
「瑠和ッ!!」
いくら呼びかけても瑠和が答える事はなかった。無理もない、つい先程まで親しく話していた人間が、自分の目の前で無残に死んだのだ。受けたショックは絵麗菜のそれをも上回るだろう。普段人を瀕死まで追い込んでいる自分でも、正気を保っていられる自信はなかった。
『その娘も連れてくると良い。助けられなくとも、死に化粧をして親に返す事程度は出来るだろう』
「……わかった」
この変わり果てた姿を家族に見せるのか。少し悩んだ瀬砂だったが、最後には彩人の言葉を受け入れた。右脇に二つに分かれた聖愛、左脇に瑠和を抱え込む。絵麗菜は背中のブースターに座らせた。落ちないかとも心配したが、突起部分を掴ませると力を込めたようなので大丈夫だろうと判断する。全員を固定したのを確認したところで、瀬砂は彩人の研究所まで走り出した……。
「……瀬砂」
人目につかぬ路地裏を、瀬砂は駆け抜ける。風切り音しか聞こえなかった静寂の中に、ふと自分に呼びかける声がした。絵麗菜は既に寝息を立てている。話しかけてきたのは、どうやら瑠和の方だった。
「少しは落ち着いた?」
瀬砂はぶっきらぼうにそう問い返す。恐らく先程よりはマシになっているのだろうとは思う。けれど、問いに返すように腰へと掴まった手はあまりに弱く、心の傷の深さを示しているようだった。それが分かっているからこそ、瀬砂もそれ以上の言葉はかけない。そのつもりだった。うわごとのように漏れ出た、彼女の言葉を聞くまでは。
「……莉理奈……なんでこんな事……」
「莉理奈……? アンタ、莉理奈を知ってるの!?」
思わず一瞬立ち止まりそうになりながら、瀬砂はそう問い返す。だが返って来るのはわずかなうめき声だけ。どうやら本当に無意識に出たつぶやきらしい。だが、だからこそしっかりとその名を覚えているのは不自然だ。そう、過去に記憶されたものでもない限り。
「納部 莉理奈……アイツ、一体何者なんだよ……」
瀬砂の問いに答える者は、そこには誰もいなかった……。