3-5
「あの娘さ、病気かも知れないんだって」
瑠和がそう語るのを、瀬砂は手渡された缶を見ながら聞いていた。中ではどす黒い液体が波を立てている。瀬砂はげんなりとして近場のベンチに腰掛けた。
「あれ? アンタ、おしるこ嫌いだっけ?」
「いや、別に……」
そう言いながらも表情を取り繕う気にはならない。何故こうもおしるこばかりを寄越されるのか。ブームか、それともこの病院にはおしるこしか置いていないのか、はたまた単なる嫌がらせか。そんな後ろ向きな思考を押し込めながら、瀬砂は聞かされた話を咀嚼していく。
「そりゃ病院なんだから、患者は何かしら病気でしょ」
「いや、そうじゃなくてさ……教団にさらわれてから、急にこう、虚弱体質? になったらしい」
心配そうに瑠和が説明する。瀬砂は応えなかったが、今回の急な依頼がやっと府に落ちた気がしていた。虚弱、とまでは言わないが、瀬砂にもその経験は少なからずある。マナ細胞が機能停止した時の虚脱感は、まさしくそれに当たるだろう。
絵麗菜のような例外こそ存在するが、現状人類の大半は対内能力により身体が強化された状態にある。それが失われると、まるで力が入らないような気分に見舞われるのだ。ただ本来の身体に戻っただけにも関わらず、である。無論、それとはまるで違う原因である可能性も少なくはない。だが、黒魔術教団の目的はマナ細胞の収集のはず。何も関係がないとも考えにくかった。
「危ないね。あいつら、人体への影響なんてロクに考えないから」
「ああ、心配だよ。身近な人が傷ついたり、増して死んだりするのなんて、極力見たくないからね……」
瑠和の言葉は重い。無理もない、彼女の代は殉職者が出ているのだ。瑠和に限って無関係だったとは考えにくい。仲間を失った痛みは、未だ彼女の心に傷となって残っているのだろう。そして、それは瀬砂の心にも重くのし掛かる。
「誰かを傷付ければ、周りにいる誰かまで傷ついていく、か……」
瀬砂はいつも「許される暴力」を望んでいた。その為に魔法少女になり、傷つけても良い人間を探し、徹底的に痛めつけた。考えなかったのだ、周りの人間の事など。いつも独りだった彼女に、そんな事は知る由もなかった。
「……そうだ! アタシになんか用があったんじゃないかい?」
瀬砂が表情を暗くしている事に気付いたのだろう。瑠和が思い出したように聞いてくる。随分無茶な話題転換だったが、気を回してくれた事に瀬砂は感謝をおぼえた。だが、話そうと思い口を開いたところで固まってしまう。ここに至るまで、彼女は現状への違和感に気付いていなかったのだ。やがて硬直したままの瀬砂を不審に思い、瑠和が問い直す。そこでやっと、瀬砂は金縛りが解けて語りだした。
「いや、いい加減アンタに機嫌を直して貰おうと思ったんだけどね。なんか、その必要がなくなったと言うか……」
それでもなお言いづらそうな瀬砂に、瑠和も「あ……」の一言しか返さなかった。彼女も今まで、自分が瀬砂を避けている事を忘れていたのだろう。恥ずかしさもあるのか、若干頬も赤くなって見える。
「急に出てくるモンだからビックリして忘れちまってたよ……もう、なんだいこのバカみたいなオチは?」
「じゃあそのバカに振り回されてたボク達は大バカ?」
瑠和とは反対に瀬砂は少し不機嫌そうに答えた。ただ張っていた意地を忘れただけの瑠和は良い、そんな下らない事でさんざ悩まされ続けた身としては、何となく釈然としない部分があるのだ。
「だいたい、元はと言えば瑠和の短気が原因でしょ。そりゃ、今まで気を使ってくれてたのを無下にしたのは悪かったと思うよ? でも、だからってあんなあからさまに避けなくても良いじゃないか」
気付けばつらつらと愚痴がこぼれていた。瀬砂の中でも、瑠和との関係は大きなストレスになっていたのかも知れない。それだけ瑠和が重要な存在だったのかも知れないと思うと、不思議な気分だった。瀬砂の言葉は止まりそうにない。
「そうは言うけどね、女にとって初めてってヤツはなんでも重要なモンなんだよ。それを横から来たヤツにかっさらわれたら、そりゃ怒りたくもなるさね」
対する瑠和も黙ってはいなかった。忘れていた怒りがよみがえってきたのか、こちらもやや強い口調で言い返す。「うわ、コイツホントにめんどくさいな」などと悪態をつきながらも瀬砂も困っていた。実際助けてもらっている負い目がある分、こう言われると弱い。返す言葉の思い付かない瀬砂に、瑠和を収める手段は多くなかった。
「はぁ……じゃあ、ボクが代わりの初めてとやらを何かの形であげる。それであいこにしよう」
思い付いた中では恐らく妥当な条件。しかし、それを聞くと同時に瑠和は口に含んでいたおしるこを吹き出した。汚いな、と言う瀬砂の苦情も無視して、彼女は執拗に同じ言葉を聞き返す。
「それ、本気で本気!?」
「アンタはボクに何を頼もうって言うのさ……」
ここに来て瀬砂も何か悪寒を覚える。瑠和の血走った目と、荒い息に思わず数十センチあとずさった。失言だったかと思っても既に遅い。とてもではないが、今の彼女に嘘だったなどとは言えない。そんな事を口走ってしまえばどうなるか、それこそ判ったものではなかった。肯定以外の選択肢は、瀬砂には残されていないのである。
「……魔法少女に二言はないよ」
そう言いながらも口ごもりながら瀬砂は答える。同時に瑠和の表情が明るさと、何かしら企んだような笑みに変わる。無論、瀬砂には不安要素しか受け取れない。やがて瑠和も顔がゆるんでいる事に気付いたのか、両の頬を平手で叩いてから咳払いした。
「……じゃあ、目を瞑って」
戦慄を覚えながらも渋々目を閉じる瀬砂。視界が完全に闇で閉ざされ、妙に布ずれの音が大きく聞こえてくる。こんな状態にして一体何をするつもりなのか。そればかりが気がかりな瀬砂は何とか瑠和の動きを突き止めようと、視覚以外の感覚を研ぎ澄ます。その瞬間だった、口元に感じた事のない感触が押し付けられたのは。
なんだろうかと瀬砂は一瞬考える。人肌程度の暖かみのある、柔らかい感触。微妙に湿った感触もある。更に顔も近づけているらしく、肌の表面を吐息が滑っていった。そこまで判れば、押し当てられているのが唇だと気付くのに、そう時間は必要としなかった。
「ッ!? な、な、な、な、な……!?」
思わず瑠和の身体を突き飛ばす。しかしその後は文句を言おうにも、狼狽のあまり何をする、の一言すらはっきりと言えなくなっていた。そんな様子はどこ吹く風で、瑠和は赤らめた頬を両手で押さえている。
「瀬砂の唇、甘い味がした……っ」
そりゃそうだろうね、さっきまでおしるこ飲んでたんだから! そう言ったつもりではあるのだが、相変わらず瀬砂の口から声は出ていない。とにかく状況が飲み込めず、金魚のように口をパクパクとし続ける。結局最初に言わんとした事を問うまでに、実に二分を要した。
「な、なにするんだ、アンタは!?」
「ホントはもっと先まで貰おうと思ったんだけどねぇ、不意打ちで貰えるのはここまでだと思って妥協したんだよ?」
「まずなんで欲しがるんだよ、そんなものっ!?」
悪びれずに答える瑠和に、素早く問い返す。やっと状況が解ってはきても、瀬砂にはその意図がまるで解らない。初めてを譲る約束は仕方ないとして、何故それで求めるのがファーストキスなのか。同性の、それもこんなあばずれのキスなどを欲しがる理由が、彼女には皆目見当がつかなかった。
「そんなの……あ、アンタが、好きだから……」
「……は?」
瑠和の返事は、先程までとはうってかわってか細かった。だが、瀬砂ならば当然聞こえないなどと言う事もない。ただ、聞き取ることはできても、そこから意味を読み取るには少々の時間を要した。
「いや、だってボクら、女同士だよね?」
やっとの事で意味を理解しても、そこに心が追い付かない。誤解かも知れないと確認するも、瑠和の返事は見事に期待を裏切るものだった。
「そこは……仕方ないさね。アタシ、そう言う趣味だし」
「……」
思わず目頭に手のひらを重ねる。瀬砂は既に、理解の許容を越えていた。