第8章 屋上。
少し歩くと、十階建ての立派なマンションが見えてきた。
「ほら、あそこだよ。俺んちの下の階にあいつの部屋があるんだ」
「へえー。いいなあ、大きくて。……もしかして、杉沢の家って金持ち!?」
「馬鹿、ローンだよ」
直史が真面目な顔をして言い返すので、思わず明は吹き出した。マンションに入ると、直史はオートロックを解除するための部屋番号を入力する機械にある鍵穴に、制服から取り出した鍵を差し込んだ。ドアがすうっと開く。明は彼の後を付いてゆく。
「ここだ」
直史が立ち止まった部屋の表札には『IMAI』と書かれていた。すぐ隣にある格子のついた窓には、里恵の物と思われる青色の傘が掛かっている。生活感を漂わせる光景を見せつけられて、彼女も家族の元で育った一人の人間だという当たり前のことに今初めて気付かされた。
直史は少しも躊躇せずに呼び鈴を押した。明は緊張した面持ちで制服のリボンを正す。しばらくしてドア開かれ、顔を覗かせたのは茶色い髪を一つに束ねた三十代後半と見られる女性だった。
「あら、なおくん? 久しぶりだねえ」
女性は、目尻に細かいしわの刻まれた目を細めた。この人が母親か。意外と普通の人だ。
「そうですね。あの、里恵はいますか?」
明は愛想笑いを浮かべる直史に視線を向けた。彼女の名前を呼び捨てするなんて、と驚いたからだ。「ごめんねえ、今いないのよ。どこへ行ったんだか」
と、すまなそうな顔をする。そうですか分かりました、と直史は言い帰る様子を見せたので明は彼の後ろで軽く頭を下げた。
「どこに行くの?」
マンションのエレベーターに乗り込む直史。返事が返ってこないので、仕方なく明もエレベーターに乗る。直史は『10』と書かれたボタンを押した。
「何しに行くの?」
「屋上だ」
短く答える。屋上に何しに行くの? と聞きたくなったが、エレベーターはどんどん上昇して行き、既に五階を過ぎたので着けば分かることだと思い何も言わなかった。
上昇する時特有の、耳鳴りが止まった。エレベーターは一瞬がくんと揺れ、その後ゆっくりと扉が開いた。直史は降りるとまっすぐ階段の方へ向かい、屋上へと上ってゆく。明は黙って彼の後を付いていった。上り終わると、上部が曇りガラスになったドアが現れる。直史がドアノブを回すとギイッと音が鳴った。
屋上に入ってゆくと、里恵の後ろ姿が明の目に入った。
ラフな普通の格好だ。灰色のパーカーに長めのGパン。落下防止の柵に組んだ両手を乗せている。足音で気付いたのか、里恵は振り向く。明と直史の姿をとらえると予想していなかったのだろう、驚いた顔になった。里恵のすぐ目の前まで歩いてゆくと、直史は
「よっ」
と軽く右手を上げた。里恵は明のことをちらっと見たが、彼に向き直り不機嫌そうな顔で言う。
「何でいるの」
「お前に用があった」
すると里恵は鼻で笑った。
太陽の下、彼女の目の下に出来た青黒いくまが目立っていた。あまり健康そうには見えない。その姿が色々と無理しているように思え、明はつい声をかける。
「今井さん、」
言ってからしまった、と思った。また、話の内容を考えていない。
「あの、怪我はしなかった?」
言葉が口をついて出て来た。里恵は明を見つめ自嘲気味に笑う。
「なーんだ、見られちゃったのか」
失言した、と思った。彼女の、あの血を浴びた姿を見てなければ言えないことだ。明がうろたえていると、
「あの血は、確かに杉沢の物だよ。しばらくして野次馬しに行った時、ふとした拍子に付いちゃったからトイレで拭いたのさ。ただ、それだけ。他は何もないよ」
そのことを知らない直史にも分かるように詳しく喋った。
「お前に、渡したいものがある」
ちょうど良いタイミングだと思ったのか、直史は口火を切った。明が横目で見ると、彼は既にあのシャーペンを後ろに握っている。
「何?」
「杉沢が落ちた場所に、これが落ちていたんだ」
里恵に見えるように手を開く。それがすっかりと見えるようになった時、里恵の顔色が変わった。