第71章 変わったね。
クボタは青ざめていた。
「ぼ、僕のせいじゃないよ。この人が飛び出してくるからだよ」
斐羅はうなっていた。里恵がクボタを突き飛ばして斐羅の前に跪く。
「斐羅、斐羅……」
明はその場から動けなかった。直史が、
「今井、救急車と警察に電話を!」
と言った。里恵は明に背を向けているので表情はうかがえないが、電話をしているときの喋り方からしてかなり動揺しているのが聞いて取れた。一歩一歩、斐羅に近付く。斐羅の腹部が赤く染まっているのが目に入り、明の足から力が抜けた。へなへなとその場に座り込む。
クボタは後ずさりしていた。直史が、クボタの手を掴む。
「逃がさねえよ」
直史の声は恐ろしいほど低かった。直史は、怒っているんだ。
やがて救急車とパトカーが来て、斐羅と明と里恵は救急車に乗り、クボタと直史はパトカーに乗った。里恵は泣いていた。明は震えていた。もし、斐羅ちゃんが死んだらどうしよう。私のせいだ、私のせいだ……。斐羅はずっと苦しそうな声を上げていた。
病院に着き、すぐさま斐羅は手術室に運ばれた。里恵と明が手術室の前で座っていると、医師が呼んだのだろう、斐羅の母親が駆け込んできた。顔には大きな痣があった。
「斐羅は……」
「今、手術しています」
里恵が言った。
「私、斐羅が死んだら生きていけないわ……」
斐羅の母親は泣き崩れた。里恵が、
「斐羅はこんなことで死んだりしないはずです」
と言う。
「昨日、斐羅に酷いことを言ってしまったの」
「何を……言ったんですか?」
明が訊いた。
「斐羅の手首に傷があるのを見つけてしまって……口論になったわ。お母さんがあんたの為にどれだけ頑張ってきたと思ってるの? って。それで、死にたいなら首でも切って死ねばいいじゃないって、言ってしまって……」
明は言葉を失った。
「酷い」
里恵が言った。
「斐羅は、必死に生きているんですよ! 好きな人に振られた哀しみに耐えて、辛さを痛みに変えて……。生きたいんですよ、斐羅は」
斐羅の母親は言い返そうとはしなかった。
「もう、犯罪者の斐羅はいないんです。高校に行こうと頑張っていたんです」
里恵がそう言うと、斐羅の母親は声を上げて泣いた。
「斐羅に謝りたい。そして、頑張ったねって言ってあげたい」
と、斐羅の母親が言った。
「斐羅ちゃん……」
明は手術室を見て呟いた。大丈夫、きっと斐羅は助かる。そう、信じないと。
ちょうど三時間経ったとき、手術室と表示されているランプが消えた。明は唾を飲む。
医師たちと担架に横たわる斐羅が出てきた。
「斐羅!」
斐羅の母親より先に里恵が斐羅に走り寄る。
「手術、成功です」
医師が言った。明は安堵の息を吐いた。
「よかった……」
斐羅の母親が言った。
「ただ、一ヶ月くらい入院しなければなりません」
一ヶ月。丁度私立の入試はが始まる頃だろうか。こんな時期に入院は大変だろうが、助かっただけでもよかったと思ってほしい。
「あの、ちょっと斐羅さんの身体の痣についてお訊きしたいのですが」
医師が言った。
「あ、それは……」
痣?明は何のことだか分からなかった。里恵が明に小声で、
「前言ってただろ? 斐羅の父親が殴るんだよ、斐羅とお母さんのこと」
と言った。そうだった。だから、斐羅はストレスが溜まって万引きをしていたんだった。
「とりあえず、警察に連絡しましたので」
医師が言った。明は、斐羅の父親が捕まってしまえばいいと思った。そうしたら、斐羅は救われる。
もう夜だったので、明と里恵は家に帰された。
次の朝、学校に行くと皆はクボタの話題でもちきりだった。
「ねえ、スマイリー! クボタが人刺したんだって!」
ナツキが言った。
「あー……」
「え、知ってるの?」
と、紀子。
「うん。……あの、誰にも言わないでくれる?」
「うん」「勿論」
明は、ナツキと紀子が黙っていてくれることを信じて昨日の出来事を話した。
「……そんなことがあったんだ」
「斐羅ちゃん、大丈夫なの?」
紀子が訊いてきた。
「命に別状はないみたい」
「クボタがそんな奴だって思わなかったよねえ」
これで、うちのクラスから二人の逮捕者が出た。杉沢とクボタ。
と、里恵が教室に入ってきた。
「今井さんも大変だったね」
紀子が声をかけた。里恵は、
「分かってると思うけど、明も直史も悪くないからな」
「うん」
「明もショック受けてるから、あんたたちが支えてやってくれよ」
里恵が立ち去ったあと、ナツキが、
「今井さん、変わったね」
と言った。
「スマイリーのこと、本当に好きなんだね」
「私たちも負けてはいられないね」
「うん!」
ナツキと紀子は明に抱き付いた。
「ぐ、苦じい~」
そう言いながら明は笑った。
休み時間、明と里恵は直史の元に集まった。
「警察、何だって?」
「クボタ、精神科にかかっていたらしいぜ。丁度、杉沢にいじめられた頃から」
ここでまた杉沢か。
「あいつ、いじめをやめていなかったんだよ。クボタの靴を隠したり、ノートを破いたり」
「嘘、吐いてたの?」
「そういうことだな」
「アタシ、何の為にあんなことしたと思ってるんだよ。許せない。杉沢が許せない……」
里恵は怒っていた。
「病気ってことは、クボタ、罪にならないの?」
「もしかしたら、そうかもしれない、って……」
「斐羅があんな目に遭ったのに、何だか悔しいな」
「しょうがねえよ。助かっただけでもよかったよ」
確かにそうだ。それにしても、自分のせいで酷い迷惑を斐羅にかけてしまった。謝って、許してくれるだろうか。