第50章 大っ嫌い。
新学期。斐羅は学校の門の前で立ち往生していた。もう授業は始まっている。担任には母から遅刻するとの連絡を入れてもらっていた。皆と一緒に校舎に入る勇気がなかったから。だって、もしも知っている子に出くわしたらどんな反応をすればいいのだろう? 教室に入ったらまた、戦争が始まる。どっちにも付けない永世中立国の自分。いつまで戦争は続くのだろう? 怖くなって、門に手をかけては離すの繰り返しだった。
昇降口から見覚えのある生徒たちがぞろぞろと体育着に身を包み校庭へ現れた。斐羅の身体が硬直する。その中には自分のグループだった子もいた。いじめの主犯格。どうしてそんなことをするのかと尋ねたい気持ちになったことはなんどもある。けれど、訊くことは出来なかった。
「あ、あれ、安藤さんじゃない?」
彼女の声が聞こえた。斐羅はとっさに校門の影に身を隠す。――見つかった。心臓はうるさいほどに鼓動を打っている。でも、見つかったことよりも友達だったはずの彼女に名字で呼ばれたことが斐羅の頭を支配した。ああ、そうか。私はもう、友達じゃないんだな。
「安藤さん」
二年前まで友達だった彼女が名前を呼んでいる。仕方なく、斐羅は姿を現した。
「久しぶり」
「う、ん……」
斐羅にはどうしても訊きたいことがあった。いじめられていた女の子はどうしているのか。別のクラスになって、いじめから開放され、楽しい学校生活を送っているなら斐羅の罪悪感も少しは薄れる。
「そういえば、ジェシカちゃんは?」
ありったけの勇気を出して訊いてみた。
「ああ、野崎?」
「うん……」
「あいつなら、中一のときに転校したよ。青山中に」
転校……。青山中とは、里恵たちが通っている学校だ。それほど離れてはいない。それがどういう意味を持つのか、斐羅には分かっていた。
「あいつ、逃げたんだよ」
そう。ジェシカちゃんは、彼女たちから逃げたのだ。
「あ、安藤」
校庭に来た体育の先生が声をかけてきた。先生の後ろで「安藤さんって誰?」という声が聞こえる。
「不登校の人だよ」
そう答えたのは友達だった彼女。他人事のようにあっさりと言われたことで、斐羅の心は傷付いた。そして、怖くなった。自分に向けられる皆の目。先生の作ったような笑顔。何よりも、友達だった彼女が。斐羅は皆に背中を向けて走り去った。馬鹿。自分の弱虫。そう心で叫びながら。
「あ、斐羅からメールだ」
休み時間、里恵が隠し持っていた携帯電話を見て言った。
「何何?」
「えーっと……『やっぱり学校行けなかった。嫌だよ。もう嫌だよ……。私なんか大っ嫌い』だって。やっぱり無理だったかー……」
「そっかあ……」
明と里恵は暗い表情になる。
「スマイリー」
ナツキが明を呼んでいた。「行けよ」と里恵が言ったので、ためらいつつもナツキたちの元へ行った。里恵の方を見ると、教科書を通学バッグに入れて何やら帰る支度をしているようだった。きっと、斐羅の元へ行くのだろう。
「あ、杉沢」
紀子が呟いた。彼女の視線の先を追うと、クボタの背中に冷却スプレーをかけている杉沢の姿があった。クボタは黙って俯いている。誰も止めようとはしない。直史は、友達と喋ってまるで気付いていないかのようなふりをしている。そうだ、里恵は? 里恵なら、止めるはずだ。
しかし、里恵は一瞬杉沢に視線を向けたがすぐに逸らし、教室を出て行った。
「何で……」
思わず明は呟いた。
「何が?」
ナツキが訊く。
「何で、誰も杉沢のこと止めようとしないの?」
「だって、自分がターゲットになったら嫌じゃん。それに、そこまでしてクボタを助けたい人なんてこのクラスにいる?」
そうだ。自分だって、クボタを助けようとし、ていないじゃないか。自分がいじめられたって構わない、なんて思えるほどクボタのことが好きなわけじゃない。いじめ。あれはいじめだ。里恵のいじめは収まった。けれど、杉沢を止められる者なんて多分いないだろう。杉沢は冷却スプレーをかけ終わった。すると、満足げな顔でその場を去ろうとする杉沢に直史が近寄った。
「何だよ、和泉」
「お前、止めろよそういうの」
「は?」
「変わったな、お前」
「うるせえな」
「――こんな姿見たら、安藤が悲しむだろうな」
あん、どう?
杉沢は床に唾を吐いて教室を出て行った。安藤が悲しむ。安藤って……。
「斐羅ちゃんのこと?」