第29章 未来。
「安藤さんが……」
「電話しても出ないんだよ」
里恵は苦い顔をした。
「家には? 行ったの?」
「行けねえよ。明らかにアタシのこと避けてるんだし」
「でも……私に出来ることなんてあるの?」
幼なじみの里恵ですら無理なことを、自分は何が出来るというのか。里恵がトイレの個室に入ったので、明はこの前斐羅に言ったことを思い出していた。色々な道があるし、諦めることなんてない。この発言にどんな問題があったのだろうか。分からない。でも、直史は『俺たちの責任』だと言っていた。
「ねえ、今井さん」
トイレから出てきた里恵に訊いた。
「安藤さんのこと、傷つけちゃってごめん。でも、私にはどこが悪かったか分からないんだよ」
すると里恵は流しに唾を吐いた。
「分かんないなら教えてやるよ。斐羅にはな、未来なんて見えていないんだよ」
「え……」
「今生きることで精一杯なんだよ。だから将来のことを話すと斐羅は嫌がるんだ」
そういうことだったのか。胸のつかえが取れた気がした。明は大事なことを訊こうとしたが、トイレに同じ中学の人が入ってきたのでつい無言になる。里恵から目線を逸らして、手なんか洗ってみたりして……。
「じゃあ、今日も頑張れよ、スマイリー」
通りすがりに耳元で言われた言葉は、皮肉にしか聞こえなかった。
「スマイリー遅ーい」
トイレから出るとナツキに言われた。
「ごめんごめん、便器に収まりきらなくて」
「ちょ、それどれだけ溜めてんだしー!」
ナツキと紀子が笑う。
「じゃあ並ぼっか」
「そうだね」
そして先生の長ったらしい話を聞いた後、明たちは新幹線に乗った。席順は明の隣に里恵、ナツキの隣に紀子。
「お願いっ、スマイリー。今井さんの隣になって」
と言われて決まった席順だ。明が人の頼みを断るということはめったになかった。
里恵は頬杖をついて窓の外を眺めている。明は周りを気にしながら、小声で里恵に話しかけた。
「ねえ、今井さん」
「何だよ」
先ほど訊けなかったことを訊く。
「私の力を貸してほしい、って言ったけど私に何か出来ることがあるの?」
「ある」
「何?」
「一緒に斐羅の家に行ってくれればいい。もちろん、直史も」
里恵は明の目を見つめた。
「……そんなことでいいの?」
「みんな仲良くなれば、斐羅だって戻ってくれるかもしれない」
屋上で里恵と直史が言い合ったのを思い出した。
「じゃあ、和泉にも話をしないと、」
「スマイリー」
ナツキの声だ。振り向くと、後ろの席で彼女が手招きしていた。
「ちょっとごめんね」
そう言い残してナツキと紀子の元に行く。
「スマイリー、一緒にトランプやろうよ」
「うん……」
「ねえねえ、さっき今井さんと何話してたの?」
そう訊いたのは紀子だった。明は唇を噛む。
「いや、ちょっと……」
「ちょっとって?」
「そんなことまで話さないといけないわけ?『トモダチ』って」
里恵が振り向いて言った。紀子の目が大きくなる。
「いや、でもやっぱり気になるから……。今井さんってあまり他の人と話しないじゃん?」
ナツキが焦りの色を見せながら言った。
「話そうとしてこないだけじゃんよ」
沈黙。明には他の生徒の笑い声が遠く聞こえた。
「ねえっ、今井さんも一緒にトランプやらない?」
明が精一杯の笑顔で言った。
「アタシはパス。その人たちに嫌がられてるみたいだからさ」
「そんなことないよ、ねえ?」
と明が言った。
「そ、そりゃ勿論」
そう言ったナツキの笑顔は引きつっていた。
「もうちょっと嘘が上手くなってからにしな」
そう言って里恵は顔を前に戻した。ナツキと紀子は顔を見合わせた。明は耐性が付いたのか、さほど驚いてはいなかった。
「何、あの態度」
ナツキが呟いた。
「ねー! 最悪じゃん」
紀子が目をまん丸にさせた。
「スマイリーはどう思う?」
「えっ……」
「もしかしてあんな人のことが好きなの?」
ナツキが『あんな』のところを強く発音した。それでああ、わざと里恵に聞こえるように言っているのだと分かった。里恵のことは嫌いではない。しかし、本当のことを言ったらハブられるかもしれない。明はしばらくの間口を開けず、下を向いていた。
「ぼそぼそ喋ってんじゃねえよ。アタシのことが嫌いならはっきり言えよ」
里恵がもう一度振り向いた。そして明に顔を向けると、
「江川さんもアタシのこと嫌いなの?」
と訊いた。明の心拍数が速くなる。好きだと言ったらナツキと紀子に嫌われる。嫌いだと言ったら今井さんに嫌われる。まさに板挟み状態だった。
「私は……」
脳裏に浮かんだのは里恵から缶ジュースをもらったときのこと、屋上で「江川さんもまた来てほしい」と言った笑顔、そして斐羅、直史。
「私は好きだよ、今井さんのこと」
はっきりとそう口にした。