第23章 アタシの家に来い。
あのまま水を出したら里恵は水しぶきで濡れてしまう。でも、わざわざ声をかけなくても察してどいてくれるかもしれないし、保健室で洗うという方法だってある。だけど……明は迷っていた。
今し方走り終わった生徒の、荒い息づかいが後ろから聞こえてきた。自分も里恵のようなはっきりした性格になりたかった。こんなことで迷うなんてくだらない。
明は意を決して、湿った地面へ一歩を踏み出す。その間も心臓はどきどきしていてうるさかった。怪我をした方の足を引きずるようにして、水道までの距離は短いから歩みはゆっくりと。一度だけ里恵がこちらを見た。が、すぐに目をそらしてしまう。もう水道は目の前だった。
こんなに里恵に近付いたのは屋上で話した以来だ。里恵は明より五センチほど背が高い。だから里恵のつむじを見たのは初めてだった。髪の生え際が黒くなっている。
明が水道の蛇口に手を伸ばしかけても、里恵が移動する気配はない。水道は里恵の後ろにあるのだから明が何をしているのかは見えないのだが、水道へ向かう姿は絶対に視界に入っていたはずだ。わざとだ、と明は理解した。無視される可能性も踏まえながら思い切って声をかけることにする。
「あの、水跳ねちゃうから」
里恵が振り向いた。その顔は無表情で、心なしかいつもよりくすんで見える。そして怪我をしている明の膝をじっと見つめた後、
「だから?」
と訊いてきた。その言葉に明はうろたえた。
「えっと、ちょっとどいてくれる?」
「イヤ」
里恵が即答する。明は益々困惑して、身体の温度が下がってゆくような感覚を覚えた。イヤと言われたらどうすればいいのかなんて考えてもいなかった。とりあえず、
「え……どうして」
と訊いてみることにする。膝がキリキリと痛みの悲鳴を上げていた。
「何かそういう態度ムカつく」
「そういう態度って?」
「被害者ぶってるところだよ。アタシが悪いって思ってるんでしょ」
「え、そんなことないよ。何言ってるの今井さん」
罵声を浴びることなんて思ってもいなかったので、明は焦っていた。ホイッスルを吹く音が聞こえ、しばらくしてトラックを駆ける複数の足音が後ろを通り過ぎた。
「そういうのがウザい。アタシとあんまり話したくないって思ってるのが分かるんだよ」
「でも」
明は反論した。「それは今井さんだって同じだと思うんだけど。私と目を合わさないようにしてたじゃん」
突然里恵が声を出さずに笑い出した。
「江川さんも結構言うようになったじゃん。前は気まずくなっても笑って流す『スマイリー』だったのにさ」
皮肉のつもりだろう、里恵は『スマイリー』のところを強調して発音した。数メートル離れた所に座る他の見学生徒達の視線が自分達に集中していることに気付き、少し緊張した。
「……そろそろ洗わせてくれる?」
「やっぱりそうなんだよね」
「え?」
里恵は立ち上がって少し離れた場所に移動したが、そんなことを言われたら洗えなくなるではないか。
「結局斐羅のことなんかどうでもいいんだ」
「……」
「いいよ、気にしないで洗って」
明は気が引けながらも蛇口をひねった。水はふくらはぎを伝って靴下に染みてゆき、傷口はすぐに綺麗になった。
「直史に言っといてよ」
周りの生徒に聞かれても構わないと思っているのだろう、里恵は声量を上げて言った。
「今日、アタシの家に来いって」
一瞬、聞き間違いかと思った。あんな別れ方をしたというのに自宅に呼ぶ神経が理解出来ないし、何よりもどうして自分は誘われないのだろう。
「んじゃ、よろしく」
そう言うと里恵は授業中だということにも構わず校門へ歩いていった。途中で町田先生が気付き呼び止めたが、歩みを止めることはなかった。里恵が授業中に抜け出すことはよくあるらしいから、先生はまたかと言う風な顔をした。
「……江川さん、今井さんと仲良いの?」
完全に里恵の姿が見えなくなると、見学生徒の一人が好奇の目で訊いてきた。
「ううん」
明は首を振り、保健室へと歩いていった。仲間外れにされた気持ちを噛みしめながら。