第20章 泣いてた。
何言ってんだよと言おうとしたのかもしれない、里恵は口元を歪ませた。
が、頬の筋肉がつってしまったかのような不自然な形で口の動きは止まっていた。斐羅の強い眼差しが本気で言っているのだということを物語っている。それくらい斐羅ははっきりと言った。
「うん。私が止めるよ」
斐羅がもう一度言った。自分に言い聞かせるようにうなずきながら。
「……何言っているんだよ」
「ごめんね、里恵」
斐羅は立ち上がってお尻をはたく。このままじゃ本当に来なくなるかもしれない、謝るのは自分だと思った。でも、どんな風に謝ったらいいのかどうしても分からない。グループからはみ出さないコツはよく知っていたけれど、そんなの今は全く役に立たなかった。
「逃げるのかよ」
苦々しく呟いたのは直史だ。ポケットに手を入れたまま斐羅を見据える。
「うん」
そう言って微笑むと視線をアスファルトの地面に落として、ごめん、と再び同じことを口にした。
「じゃあ」
斐羅はみんなに背を向ける。少しだけ振り向いたその時、彼女と目が合った。行かないで。そう明は言おうとしたが、斐羅は顔を前に戻して歩き始めた。
「待ってよ!」
里恵が落下防止用の柵を叩いて叫んだが、斐羅の歩みは止まらない。明は唇を噛みながらどうしてこんなことになったのかと考えていた。悪いのは、私?
里恵が走った。
扉を開けかけた斐羅の腕をつかみ、前に回り込む。
「斐羅、」
しかし言葉はそこで途切れ、次の瞬間には二人の手は離れていた。斐羅は里恵の横をすり抜け、やがてこちらからは見えなくなった。
「……斐羅、泣いてた」
里恵は戻ってくると、抑揚のない声で言って振り向いた。里恵が勢いよく閉めたため、扉はまだ揺れていた。泣かしたのも自分、なのだろうか。
「マジかよ」
「嘘なんて言うわけないじゃん」
「だってあいつ、泣いたことないじゃん」
「だからびっくりしたんだよ」
――もうここには来れない、明は思った。自分がいなければこんなことにならなかったはず。一方で自業自得だ思う自分もいて、そんな自分が汚らわしくて、醜くて、本当に嫌になる。ソックタッチできちんと止めたはずの白い靴下は、とっくにずり落ちてたるんでいた。
「お前が俺達にもう来るなって行ったから帰っちゃったんじゃねえの」
「元は直史が悪いんじゃん」
小さな言い争いが始まる。責任の押しつけ合いみたいだった。全部を引き受けて去っていった斐羅。自分に真似出来るものではない。
今井さんと、和泉と、私。
斐羅に会う前に戻っただけかもしれないが、自分は知ってしまった。会ってしまった。髪の長い人見知りの女の子と。もう、本当に来ないのかもしれない。
「斐羅がマジで来なくなったらどうする気?」
か細い声で言った。
「……ここに来てるからって学校に行くようになるわけじゃねえじゃん。逆に悪影響のような気がするんだけど」
そして、尖った直史の声。
「お前、そんなこと思っていたのかよ。何が他人だからこそ信じ合えるだよ。アタシのことも斐羅にのことも、信用なんてしてないじゃん」
「信用とは別問題だって。何で分かんないのかなあ……」
「いいよもう。やっぱり優等生には分からないよね。……もう、お前来るなよ」
里恵の溜め息混じりのその言葉に明は固まった。本当に、もう駄目なんだ。今後、直接来るなとは言われなかったとしても平然と遊びに来れるほど明はタフじゃない。
「あ、あの私そろそろ帰るね」
こんな空気の中よく言えたと明は自分を褒めたくなった。集中する二人の視線を振り払うかのように明は元気よく立ち上がるとスカートの皺を伸ばす。
「俺も帰る」
顔を上げると既に直史は歩き出していた。うるさく感じるほど勢いよく扉を閉め、大きな音が立った。
「……あ」
二人で話すというのはどうだろうか。そしたら修復出来るかもしれないと思ったのだ。
「……ごめんね」
安藤さんの気持ち、本当は少し分かるな。和泉って酷いよね。ああいう言い方は最低だよね。何であんな奴と友達になったの……? そう言おうとしていた。しかし里恵は柵まで歩くと明に背中を向けたまま、
「帰るんでしょ」
と冷たく言った。拒絶だ。いつもはぶつかり合いがあっても、すぐに謝ったり他人の悪口にすり替えたりして平和を保ってきたから、こんな言葉を浴びせられるのには慣れていなかった。心音が耳に響くのを感じながら、無言で明は走り去った。
そうやって、少しずつ壊れてゆく。