第14章 バージン。
「江川さん」
顔を上げるといきなり缶が飛んできた。とっさに目をつぶりながらも、どうにかキャッチする。それは、りんごジュースだった。しかも、まだ未封の。
「やるよ」
里恵は自分のジュースを一口飲んでにこりと笑った。
「あ、ありがとう」
戸惑いながら缶のラベルに目を通す。
「賞味期限は切れてないから安心しなよ。たった今買ったやつだし」
「そういう訳じゃないけど」
すると、このジュースはわざわざ自分のために買ってくれたのだろうか。里恵を愛おしく想う気持ちが明の心に広がる。明は上を向いて一気に飲む。冷たい液体がのどを通り胃に落ちるのをしっかりと感じた。
「江川さんてさあ」
後ろにある自転車のハンドルに手をかけて言う。
「バージンなの?」
明はむせかえった。水が入ったときのように鼻が痛くなる。
「ちょっと、いきなり何言うの!」
なおも咳き込みながらポケットティッシュを取り出して口を拭いた。
「あ、意味通じた?」
「当たり前だよ」
里恵は悪気のなさそうに、
「いや、もう中三だし彼氏とかいるのかなって」
「だからって何故そこから聞く!」
まるでコントのようだ、と明は思った。にじみ出た涙も拭き取ると、ティッシュを丸めて自動販売機の横にあるごみ箱めがけて放り投げた。
ゴール。
「まだに決まってるよ」
言いながら顔が火照っているのを感じた。今井さんは? と聞くほどの勇気は持ち合わせていなかった。だって、援助交際疑惑は晴れていないから。
「何だ」
里恵も飲み終わった缶をごみ箱にぽいと投げ入れて笑った。
「斐羅、人見知り激しいんだよね」
「みたいだね」
斐羅の赤くなった顔を思い出す。彼女は赤面性の気があるのかもしれない。
「美人だよなあ」
そう呟くと、里恵はブレザーのポケットに手を入れて、
「でも、昔はダチに『目が小さい』とか言われたりしてたんだよ」
「えっ」
「まあ、今は目がデカいやつがもてはやされる時代だからね、斐羅はそう言われる度ヘコんでた。でも、普通に可愛いよな、特に化粧し始めてから」
確かに斐羅の目はさほど大きくはない。だけどああいうのを和風美人というのか、とにかく綺麗だと思う。
「化粧、いつから始めたの?」
「今年に入ってじゃん」
「へえー」
明はまだ化粧をしたことがない。しかし少しだけ興味はあった。自分が化粧をしたら、どういう顔になるのだろう。
「もししてみたかったら、今度斐羅に言ってみれば?」
考えを見透かしたかのように里恵が言う。その後、付け足した。
「まあ、江川さんはそのままで十分可愛いけど」
「いや、そんなことないよ。全然」
とっさに否定する。褒められたらそんなことないと答える、それは長年の学校生活で身に付けた『技』だ。しかし里恵は突然ごみ箱を蹴った。倒れはしなかったが、大きな音が鳴り響く。明はびくりと肩を動かした。
「何かさあ、そういうのやめない?」
「そういうの、って?」
「わざと否定するの。何で、お前らはありがとうって素直に受け止めることが出来ないのさ?」
里恵の視線に圧倒され、明は押し黙った。お前ら、っていうのはきっと私みたいな建て前ばかりの人のことだろうな。そして、それはほとんどの人に当てはまる。里恵は少し優しい口調になって、
「せめて、アタシの前くらいでは本音で話してもいいじゃん」
里恵は、自分を認めてくれたのだろうか?
「……いいの?」
彼女は返事をしなかった。そっぽを向いている。照れているのだろうか、そう思うと自然と笑みがこぼれた。
「また、安藤さんに会わせてくれる?」
「うん」
風になびく髪を押さえながら返答する。
「結構暗くなってきたね。そろそろ、帰らないと」
「あ、どうすんの? 進路希望の紙」
自転車の鍵を開けながら里恵が聞く。
「適当に書くよ」
「ふうん。アタシは出さないけど」
低く笑う。
「また、担任がうるさく言ってくるんじゃない」
「ほっとくさ」
里恵の意志の強さに明は感心した。でも、こういうのを世渡り下手と言うのではないか。
「じゃあ」
自転車にまたがり手を上げる。
「うん、」
また明日、と言おうとして明は口をつぐんだ。彼女は、明日来るのかどうか分からないのだ。
「またね」
と言い直す。明は少し歩いたところで振り返った。里恵はただ前を向いて自転車を飛ばす。遠ざかる茶色い髪。他人同士、でもただの他人じゃないと漠然と思った。