第五話
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水谷さんが学校に来なくなってからも、教室のみんなは何食わぬ顔をして日々を過ごしていた。彼女のことは無関係だと、ほとんどの子供が思っていたからだ。その様子と原理は、教室の後ろに置かれた虫かごがいつの間にか喪失していたあの日にも似ている。
彼女は意外にも無知だった。校舎の三階から落ちたくらいの衝撃では自殺なんかできやしない。毎日のお見舞いの中で、イナイ君はそんなことを話してはへらへらと笑っていたように思う。今までに一度として、言葉で勝利したことのない水谷さんに、イナイ君はここぞとばかりに言いたい放題。その為に一日として欠かさないでお見舞いに来て、何も言い返さなくなった水谷さんを相手に言葉をぶつけるのだった。
「君はある意味では魯鈍だった」
イナイ君はある日、見舞い客用のイスに座りながら水谷さんにそう言った。
「長いものには巻かれとくべきなんだよ。君だって芥川とかと仲良くするべきだったんだ。そうすれば僕だって君を笑わなくて済んだし、きっとこんなことにもならなかった。もっと合理的に生きなくちゃいけないんだ。君はいつも言っていたよな、『淘汰されたあらゆる存在に、世界は言い訳を許さない。それがまかり通ってしまえば、全体としての進化が望めなくなるからだ』前よりも分かる言葉が増えて来てね、どうにか理解できたよ。世の中には力が強かったり、頭が賢かったりするおかげで生き残る奴と、そうでない所為で消えてしまう奴がいる。そして生き残る奴の為にもそうでない奴は絶対に必要で、そうでない奴はイケ……イケ、なんだっけな? そう、犠牲になるんだ。そういうことだね。それでさ」
イナイ君はその後も悪魔と神様の話、個人と世界の話、宇宙人と地球人の話、天使と奴隷の話、算数と集合の話などを饒舌にまくし立てていた。どれもこれもが借り物の言葉の寄せ集めであって、どこかしら綻びがあるように感じられた。そして最後に
「僕達はずっと友達だよ」
そう水谷さんに言って、ボクの肩を叩きながら病室を出るのだった。基本的に、イナイ君が水谷さんに何か言っている間中、ボクは背後でただ突っ立っているだけである。ボクが何を口にしたところでイナイ君から何がしかの突込みが入るし、ずっと眠っているだけの水谷さんに何ができる訳でもなかったのだ。
そこで芥川に遭遇した。
イナイ君は目を見開いた。芥川は嫌悪感も露にイナイ君を見詰めた。彼は一人で来ていた。ピアノの演奏会に出席するような礼服の彼は、右手には手には余りに過剰な量の花束を握っていて、表情は張り詰めたように険しかった。
「おまえらの所為だからな」
芥川は自分に言い聞かせるように言った。
「あいつがあんなことになったのは、おまえらの所為だ」
「違う」
イナイ君はそう言って抵抗する。だが芥川は更に強い口調で
「違わない。覚悟しとけよ」
ボクは何も言わなかった。ただざまぁみろとだけ思った。
芥川が通り過ぎたところで、イナイ君は震え初めた。そして一環の終わりだ、とでも言うような表情でボクの方を見やる。
「なっちゃん」
「何かな?」
「ボクは明日から、学校に行かないことにする」
そういうと思っていた。
「こういうのを合理的な判断だというんだ」
「そう」
どうでも良かった。イナイ君が学校に来ようと来なかろうと。この時のボクにどうでも良くなかったのは、ベッドで眠っている水谷さんのことだけだったのだ。
「それで。学校に来ないで何するの?」
「……そうだな。言葉をもっと増やしたいから、まず本を読む。それから、毎日天使か悪魔か宇宙人のどれかにお祈りするよ。僕のところに現れて、願い事を聞いてくださいってさ」
イナイ君は得意げにそう言った。彼のことだからそれをずっと長く続けることだろう。もしかしたら、大人になってもずっとそれをやっているかもしれない。今よりずっと背が高くなったイナイ君が、分厚い本を読みながら壁に向かって怪しい儀式をしている姿を想像した。そしてもしかしたら彼は本当に呼び出してしまうかもしれない。天使か、悪魔か、宇宙人。
「それで。何を願うの?」
ボクはイナイ君に訊いた。イナイ君は迷うように目を閉じて首を捻った。彼の頭の中では、様々な欲求が渦巻いて大変なことになっているのだろう。
「決まってる」
ボクは言った。
「水谷さんが早く起きて話せるようにって、そう願う」
「うん。僕もそうだ」
イナイ君はすぐ同調した。
「それが良い。うん、それが一番良い願いだね」
何度も頷いて笑うイナイ君に、ボクは尋ねた。
「そしたら水谷さんには最初になんて言う?」
「さあ?」
イナイ君はすぐに答えた。
ボクは寂しい気分になって顔を伏せた。そして、イナイ君のお祈りが叶うことを心で願った。
イナイ君のマンションの最上階の右端に殺して来た猫を置いて、そのすぐ下の階にカマキリ、すぐ下にバッタを置いた。最上階の左端には何もおかず、その下に宇宙人、更に下には檻と天使を配置する。悪魔の説明によると、この方法が一番強大な悪魔を召還できるらしいのだ。
「でも天使。あんた良かったの?」
悪魔が尋ねた。
「あんたのいるその位置って、悪魔にささげる生贄の場所なのよ。全てが終わった時、主人が何を悪魔に願ったかに関わらず地獄へ持ってかれちゃう。まさかそんなことも知らない訳ぇ? バカね!」
「バカにするでない。私は何でも知っている」
天使は淡々と答えた。
「ただし地獄送りになることに何の躊躇もない。終身刑にも服役の限度はある。死ねば天国に行き、我々の手でどこかに売り飛ばされるだけなのだからな。どんな物事も永遠には続かぬのだ。私はただ地獄から開放されるのを待てば良い。それは私にとって瞬きするほどの時間とはいかぬが、天界で本当に上手い食事を作るために必要な下拵えの時間を上回ってはいない。いざとなれば地獄がなくなるのを待てば良いのだ。言うまでもなく、その間中私は不滅であるのでな」
「嫌味な奴」
「そう聞こえるかもしれぬ。あらゆる生命にとって最大の財産は時間である。それを無限に近く所有する私達を妬ましく思うのも無理はない。ただし気をつけることだ、分不相応な寿命や力を手に入れても、本物の地獄が貴様を待つだけだ」
天使はそこまで言って、憂鬱げにボクの方を見た。
「本当にやるのであるか?」
「やる」
ボクはすぐに答えた。
「今の言葉は貴様にも言った。悪魔を呼び出し、願いを口にしてしまえば、貴様は間違いなく地獄を見ることになる。それにふさわしきものが確実に現れるのだ。あの少年と同じ運命を貴様がたどる必要はあるまい」
「かまわない」
「本当にそう思っているのだな?」
「うん」
天使は荘厳に頷いた。そして溜息を吐いた。
「ならば止めようもない。これが貴様の必然だということであろう。運命と言っても良い。何にせよ、天使が立ち入るところではない」
「じゃあ始めるわよ」
悪魔が言った。
「どうするの?」
「簡単よ。あんたの中にあるあらゆる飢えや渇きや焦がれを思って、それを満たしたいと念じ続けなさい。欲しいものを想像するより、ないままでは耐えられないものを想像するの。意味は同じよね、でも後者の方が意思は強くなるの。そして、誰でも良いからそれを満たしてくれと、心の中で強く叫ぶのよ」
「簡単であろう」
天使は言った。
「この者にはそのようなレクチャーすら必要ない」
ボクは頷いた。頷いて、悪魔の言うとおりに精神を集中させた。
誰でも良いし、なんでもする。だから、ボクのことを助けておくれ。
飢えて死に掛けた、誰彼かまわず汚い食べ物を要求する乞食のように、両手を添えて虚空に願う。
それで開放されるなら。何日だってこれを続けてやると、そう考えた。
「あらあら」
突っ立っているだけで退屈になったのだろうか。宇宙人が階段を降りて来た。宇宙人はこういうところで我慢をしなかった。人の都合も考えないし、悪びれた様子もない。
「もういらしたのですか?」
そこにもう一人の悪魔がいた。
背の高いその男は、もう一人の小悪魔と同じく、普通の人間とまるで違わない格好をしていた。彼の顔はどこまでも端正で、放つ雰囲気はとろけてしまいそうに妖艶でどこか危うかった。それこそが、彼が殊更の者である証明だった。
「遅い」
男の悪魔はこう言った。
やはり黒い衣装を身に纏って、感情もなく天使の檻の上に座った彼は、少女の悪魔とは比べ物にならないほど空虚を発している。ボクの隣で少女がすくみ上がるのが分かった。
「今更そんなところにいる。五年遅れている」
「す、すいません。すいません」
悪魔は舌をもつれさせるようにしてそう言った。
「でも五年なんて……そりゃ無理ですよ。こっちの世界に尋ねてくるだけで、どれだけかかると思うんですか?」
「遅い」
端的に、もう一度言った。
「おまえの責任。処分する。その者に悪魔は二つもいらない」
天使の檻に座って手を伸ばすと、男の異形は少女の異形の頬に触れた。
「謝罪する。今気付いたのは俺だ。許せ」
ボクの方を向いてそう言った。
「いいです」
ボクは微笑んだ。
「今来てくれたら、それで」
「やだ」
悪魔は喚いている。
「やだやだやだやだやだやだやだやだ。絶対に嫌だ。必要ない、あたしが消える必要ない。やめて、やめて、やめて。いいでしょあたしちゃんと来たんだよ。初めての仕事だったんだよ。色々したよ、あの男の為に。何でも言うこと訊いたよ。あいつ喜んでたよ」
「その認識が既におかしい」
端的な言葉は、それだけに途方もなく無慈悲だった。
「おまえの主人は稲井和馬ではない。悪魔は生贄のもとに現れるが、そこに主人がいるとは限らない」
「……! そんな……」
「哀れですねぇ」
宇宙人は眉を僅かにあげながら言った。
「流石に気の毒に思いますよ。同情します、小悪魔さん。それにしてもあの少年、たいした者ですねぇ。自分はどの異形とも本質的な繋がりを持たず、口先三寸だけで小悪魔さんと天使さんとわたし、三人ともをはべらかすなんて」
「あの者のほうが、悪魔よりも更に悪魔だったということだろう。小悪魔すら騙すとは、
地獄ではさぞ出世することであろうな」
「まったくです。しかし読み違えましたね。これでわたしは、母星に帰るのにまた別の手段を考えなければならないようです」
「そうであるな。だから悪魔はやめておいたほうが良いのだ。それに関わった者は、どいつも少しでも幸せにならないのである」
手前の天使と背後の宇宙人とが能天気に会話を繰り広げている。頬に手を添えられている少女の悪魔は、歯をかたかたと震わせて泣いていた。
「お願い。助けて」
「俺に利はない」
悪魔は無表情で言った。
次の瞬間、ボクがほんの一瞬これからのことに心を傾けていた暇。悪魔が悲鳴の音波の、最初のほんの一筋が耳朶を振るわせたかと思って顔をあげた時、少女の体は完全に霧散していた。
「たとえ悪魔であっても悪魔は脅威なのですね。随分と良い勉強になりましたね」
「良いことだ。これからこの者に起こることも、しっかりと記憶しておくが良い。そうしておけば貴様のような者でも少しは長生きできるようになるであろう」
悪魔はボクの方を見やり、促すように僅かに顔の輪郭を揺らした。その悪魔が能面のような顔をしていたお陰で、ボクは怯むことなく願いを口にすることができた。実際、ボクの相手には、この悪魔でもっとも適切なのかもしれない。
「友達を生き返らせてください。本当に、なんでもしますから」
「承知した」
悪魔は無表情に言った。
淡々として右手をあげて、拳に含んだ砂粒を落とすように僅かに動かす。それだけだった。たったそれだけで、悪魔の脇に出現したのは小学生の高学年くらいの少女だった。
少しくたびれた感じの制服を着た彼女は、無邪気で人懐っこい笑みを浮かべていた。それは少年のようでもある。
知的で、好奇心の旺盛そうな目をしていた。良く喋りそうな薄い唇はちょっとだけ子供離れしている。全体的には整った印象だ。この少女の姿と名前を、ボクは確かに記憶していた。
「水谷さん?」
少女はにっこりと頷いた。その笑顔は僅かに歪でもあった。なんというか、何かいけないことをしでかした友人を、優しくとがめるときのような表情なのだ。
「これでかまわないな」
悪魔は言った。
「はいそうです」
「ならば訊く」
悪魔は笑った。
能面ヅラが初めて見せた表情の変化は、悪魔に相応しい見事な嘲笑だった。
「この者に、何か言うことがあったのではないか?」
「そうだと思います」
ボクは答えた。
「だけれど、思い出せません。どうしてこの子を生き返らせたのかも、分かりません」
水谷さんはぎょっと目を向いた。
「そうか。ならば、おまえにとってのこの者は、いったいなんだ?」
「ただのクラスメイトです」
悪魔はゆがんだ唇を、裂けるように更にいびつに捻じ曲げる。最高に愉快そうな、本当に悪魔的な、その嘲笑にはその男の持つあらゆる醜悪さが炸裂していた。
「なるほど。これが悪魔の手法ですか」
宇宙人が呆然として言った。
「過程を満たす代わりに目的を奪う、と言えば良いのですか? 色んなことに応用できそうですわね」
「そうであるな。しかしこれではマニュアルどおりの単純労働である。この悪魔は、そういうのを好む性格であるようだな。案外裏をかきやすいかもしれぬぞ、利用してみるか?」
「冗談はやめてください」
宇宙人は薄く笑った。
ボクは、意味が分からなかった。
「それでは」
悪魔は笑みを浮かべたまま言った。
「俺はもう帰って良いな」
「あ、はい」
ボクは頷いた。悪魔の笑みは、そこで消えた。ふらりと天使の檻からマンションの廊下に立つと、天使の檻を持ち上げる。
「そこのものよ」
天使は言った。
「何かな?」
答えたのは水谷さんだった。
「きっとボクに言ってくれるのだろうと予想するけれど。ところで、カズマはもうこの世にはいないと考えた方が良いんだよね?」
「如何にもだ」
「それで。どうしろと?」
水谷さんは寂しげな表情をした。
それはあんまり、子供らしくなくって、ボクには少しだけ不気味だった。
「のんびりとしていることだ」
天使は言った。
「貴様は結論を急ぎすぎるのである。安心するが良い。人間、貴様の頭で考えて導き出せる答えなどたかが知れている。あらゆる局面で最適解を選びだし、実行しようなど傲慢もはなはだしいことだ」
「詭弁だな」
水谷さんは言った。
「傲慢は君の方だね」
「それを見抜くか。貴様は極めて優れた人間である。よって、私は少々残念に感じるところだ」
「知ったことか」
「そうであるな」
そこまでだった。
「もういいな」
悪魔は言って、天使を連れて歩き始めた。マンションの廊下は短い。きっとすぐに見えなくなるだろう。
「わたしも行かせてもらいます」
宇宙人が言った。
「きっとわたしは、母星で悪魔につままれていたのでしょう。だから掃き溜めのようなこの星にたどり着いてしまったのです。お二人とも、心から同情いたしますよ。星は違えど、同じ人間として」
「こりゃどうも」
水谷さんはシニカルに笑った。そして二人だけが残された。
「さて。あたしもそろそろ行こうかしら」
「そう」
「まったくいつか悟ったとおりね。世界は途方もなく閉ざされている。虫かごよりも性質が悪い。仮に中から飛び出したつもりになったところで、世界は無限に囲われ続けている。その中で、あらゆる物事はなるようにしかならないものだね」
「はあ?」
「校舎から飛び降りてみても同じだった。昏睡状態で、死ねたのが一ヵ月後だっけ? でも君達の言葉は全部聞こえていたよ。それは悪魔の知らないことで、あたしたちの唯一の勝利だね」
水谷さんはボクの方を向いた。
悪戯っぽく笑って、人懐っこく顔を近づけて、唇が触れそうな距離でこう言った。
「だから大好きでいられたよ。君のことも、カズマのことも。だからボクは満足だ。ずっと友達だよ。死んでもね」
意味が分からなかった。首を傾げるボクを、水谷さんはやさしく抱き寄せたのだった。
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最後まで付き合ってくれてマジ感謝です。




