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いじめから庇ったはずの男爵令嬢に婚約者を奪われたけれど

掲載日:2026/10/14

 ――私が、間違っていたのかしら。


 バラデュール伯爵令嬢であるシュゼットは、もう何度目かわからない問いを胸中で繰り返していた。


 事の発端は二か月前に開かれた、ある昼会でのことだった。


 その日はデュメリー公爵令嬢コランティーヌが主催する、ガーデンパーティーに招かれていた。美しいバラ園に令嬢たちが集い、あちこちで華やかな笑い声が響いている。


 口下手なシュゼットは、もともと社交があまり得意ではなかった。気の利いた褒め言葉も、場を和ませる冗談も、うまく言葉にできない。だからいつもそれらしく周りに合わせて笑ってばかりで、たまに庭を眺めるふりをして一人になった。


 その日も、シュゼットはいくつかの小さな輪を作る令嬢たちからはずれて、美しい庭を眺めていた。別に、人が嫌いなわけじゃない。ただ一度タイミングを逃してしまうと、どう輪に入って行けばいいか分からないのだ。


 泣きそうになるのをぐっとこらえて、シュゼットはせめて表情だけでもパーティーの雰囲気を壊さないように笑みを作った、そのとき――庭園の片隅で一人の少女が泣いていることに、気づいてしまった。


 ふわふわの金の髪をもつ令嬢が、華奢な体をさらに小さく丸めるようにして肩を震わせている。彼女は、確かボーモン男爵令嬢のノーラだろう。つい半年前に希少な光属性の魔力が発現し、聖女候補として社交界に現れた少女だ。これまで平民である母の元で育てられていたが、魔力発現を機に父親に引き取られたという。


 その彼女を取り囲むように、三人の令嬢が立っていた。中心にいるのは主催のコランティーヌ嬢だ。


「――身の程をお知りなさいな。たかが男爵家の、しかも庶子風情が聖女だなんだと持てはやされて、いい気になるものではないわ」


「そ、そんなつもりじゃ……」


 氷のように冷たいコランティーヌの言葉にノーラはそれ以上何も言えないようで、ただ怯えたように涙を流して震えている。


「見てよこの下品なリボン。可愛いとでも思っているのかしら?」

「安物で少しでも目立とうとするなんて、あさましいこと」


 取り巻きたちの嘲笑が響き、シュゼットは思わず眉尻を下げた。


 ここで口を挟めば、自分に矛先が向くかもしれない。コランティーヌは第二王子の婚約者であり、社交界では誰もが一目置く存在だ。シュゼットも歴史ある家の伯爵令嬢とはいえ、正面から逆らうのは得策ではない。


 ――でも。怯えたように泣いている人を、見て見ぬふりをすることはできなかった。


「……あ、あの」


 震える声で話しかけると、全員の視線が一瞬でこちらに集まった。それだけで怖気づきそうになる自分をなんとか奮いたたせて、言葉を続ける。


「あの、ノーラ様は……本日のマナーに反することはしていないと思います。いくらコランティーヌ様でも身分をあげつらって責めるのは、その、あまり……」


 やっぱり、うまく言葉が出てこない。しゃべり始めると用意していたはずの言葉がバラバラになって、うまく伝えることができないのだ。


 コランティーヌは扇子で口許を隠して、目を細めた。完璧に整えられた眉が、わずかに吊り上がる。


「まあ、バラデュール伯爵令嬢。ずいぶんと勇ましいこと」


 その一言で、庭園全体の空気が変わった。



   ◇ ◇ ◇



 それからの日々は、まるで地獄のようだった。


 コランティーヌたちのターゲットは、完全にシュゼットに移った。お茶会に出れば聞こえよがしに陰口を叩かれ、がんばって会話に加わろうとすれば露骨に無視される。


 やがてエスカレートするにつれ、招待状そのものが届かなくなった。公爵令嬢に睨まれた者に近づきたい者はいない。これまでは大人しい者同士で気が合うと思っていた令嬢たちも、いつのまにかシュゼットから離れていった。


 ――社交の場から孤立する。それは貴族令嬢にとって、緩やかな死刑宣告に等しいことだった。




 そんな状況が続いていたある日、ノーラがシュゼットの屋敷を訪ねてきた。


「シュゼットさま、わたしのせいでこんなことになってしまって……ごめんなさい。本当に、ごめんなさい!」


 大きな瞳を涙で濡らして、両手の指を胸の前で組み、ノーラは泣き崩れてみせる。


「でも、わたしには何もできないんです。公爵令嬢様に逆らうなんて……わたしのような下位貴族にすぎない身では、とても……」


 その姿を見たシュゼットは、困ったように微笑んだ。彼女の言ったことは、きっと真実なのだろう。男爵令嬢であるノーラが公爵令嬢に物申すのはシュゼットより何倍も難しいことだから、なんとかしようと考えてくれただけで充分だ。


「貴女は悪くないわ、ノーラ様。どうかお気になさらないで」


 そう言って手をそっと握ると、ノーラは涙に濡れた目を上げてシュゼットを見た。


「シュゼットさまは本当に、本当に……お優しいのですね」


 ――だが。今思えば、あの涙の奥の瞳がどんな光を帯びていたのかを……よく見ておくべきだったのだ。



   ◇ ◇ ◇



 ノーラの訪問から二日後、シュゼットの婚約者であるジャスティンが訪ねてきた。


 ドゥヌーヴ侯爵令息である彼は、幼い頃に親同士が決めた婚約者である。少し直情的なところもあるけれど、正義感の強い青年だった。


 弱い者が虐げられるのを見過ごせない性分で、間違っていると思えば格上の相手であっても真っすぐ意見する彼を、シュゼットはずっと尊敬していた。だから彼が応接間に現れたとき、少しだけ安堵した。この人なら、あのガーデンパーティーでシュゼットが取った行動を理解して、味方になってくれると思ったのだ。


 ――だが、それは間違いだった。


「シュゼット。昨日ノーラ嬢が、僕のところに来た」


 ジャスティンの声は硬く、いつもの快活な響きはどこにもない。その目には、弱者を踏みにじる悪は許さないという、見慣れた正義の炎が宿っていた。ただし今、その炎が向けられている先は――。


「彼女はシュゼットに嫌われてしまったから僕にとりなしてほしい、という。事情を聞いて驚いたよ」


 シュゼットは目を瞬いた。

 嫌われた、とは、一体何のことだろう。


「ジャスティン様、それはどういう――」


「君が、ノーラ嬢に辛く当たっていたとはな」


「……え?」


「彼女は泣いていたよ。そして、勇気を持って僕に伝えてくれた」


『実は、平民の出であるわたしが高位貴族の方々とご一緒するのがシュゼットさまは気に入らないようで、ずっと厳しくされてたんです……。もちろん自分の作法が至らないのはよく分かってるから、シュゼットさまに嫌われても仕方ないんです。でも、ずっと無視されるのはつらくて……。だから、どうかもう少しだけ優しくしてほしいと、婚約者であるジャスティンさまから伝えてもらえないでしょうか。これからは、もっとがんばりますから……』


 ノーラが語ったという話を婚約者から聞かされて、シュゼットは血の気が引いた。


 ジャスティンは、昔から正義感にあふれた少年だった。弱者に無条件で手を差し伸べる姿は、引っ込み思案なシュゼットには眩しいとすら思えていた。


 だからこそ虐げられたと涙を見せられたら、疑いもなく信じてしまう。裏を取ることもせず――ただ目の前の涙だけを、信じてしまったのだ。


「ちっ、違います! あの、ノーラ様に辛く当たっていたのはコランティーヌ様たちで、その、わたくしはむしろ、ノーラ様を庇って――」


「他人に罪をなすりつけるのか!?」


 必死に真実を伝えようとするシュゼットの言葉を、ジャスティンは強くさえぎった。シュゼットの肩がビクリと跳ね上がり、口から出かかっていた真実は全て砕け散ってしまった。


「庇ってくれた相手をわざわざ悪く言う者が、いるわけがないだろう! しかも君は自分の非を認めるどころか、他の令嬢たちを悪者に仕立てて自分を持ち上げるのか!? 君は前々から陰気なところがあるとは思っていたが、これほど陰湿な女だとは思わなかった。自分より才能ある者を妬んで貶めようとするなど……そんな女と、僕は一緒になることはできない!」


 怒涛のように責め立てられて、シュゼットは頭が真っ白になった。何か言わなければと思うのに、ちっとも言葉が出てこない。押し黙ったままでいると、ジャスティンが大きなため息をついて立ち上がった。


「何も言えないということは、図星なのだな。残念だが、この婚約は破棄させてもらう」


 ジャスティンは一度も振り返ることなく、部屋を出ていった。


 シュゼットは言葉を失ったまま、ただ、その背中を見送ることしかできなかった。



   ◇ ◇ ◇



 シュゼットがジャスティンから婚約破棄されたという噂は、瞬く間に広まった。その噂が落ち着く間もなく、ジャスティンはノーラと新たに婚約を結んだらしい。


 ふたつの噂は、シュゼットの悪評というおまけ付きで出回った。貴族らしい貴族である両親は、それを聞いてため息をついた。


 父は「男爵令嬢ごときにしてやられおって」と眉間を寄せ、母は「もう少し立ち回りようがあったでしょうに」と首を振った。いくら真実を説明しても、証拠がなければ意味がないという。


 だから「ほとぼりが冷めるまで領地で静養するように」という、父の言葉に反論することはできなかった。


 こうしてシュゼットは王都から追われるように、領地へ戻ることになった。



   ◇ ◇ ◇



 バラデュール伯爵領は、王都から馬車で数日の場所にある。ここにいれば社交界の毒は届かないけれど、いつ戻れるかは分からない。それどころか二度と戻れないかもしれないけれど、もうシュゼットはそれでもいいかと思い始めていた。


(そもそもわたくしには、社交界は向いていなかったのかもしれないわ……)


 しばらく穏やかに過ごして、ひと月近くが過ぎた頃。使用人が血相を変えて飛んできた。


「お、お嬢様、王太子殿下がお見えです!」


 シュゼットは一瞬、自分の耳を疑った。王太子であるレアンドル殿下が、なぜ辺境の伯爵領になどわざわざ訪ねて来たのだろう。


 慌てて身支度を整え、応接間に向かう。そこには何度か挨拶を交わしたことがあるだけの、美しい青年が立っていた。落ち着いた茶色の髪に、理知的な青い瞳。王族らしい鷹揚な空気を纏いながらも、こちらを見る目つきは鋭く、一分の隙もない。


 緊張しつつもシュゼットがなんとか粗相なく挨拶を終えると、レアンドルは真剣な表情のまま、口を開いた。


「突然の訪問を詫びる。君がシュゼット嬢だね」


「は、はい……」


「単刀直入に言おう。聞き取り調査に協力してほしい。なお答える際には身分によって忖度(そんたく)することなく、神に誓って事実のみを述べてくれ。証言に嘘偽りがあると判明した場合は相応の措置が取られることを、心して答えるように」


「は、はい。いと貴き神と王太子殿下に誓い、偽証をせぬとお約束いたします」


 王太子の言葉に動揺を隠せないまま、シュゼットは誓いの言葉を述べた。調査とは、一体何のことだろう。


「では、バラデュール伯爵令嬢シュゼットに問う。デュメリー公爵令嬢コランティーヌ、およびボーモン男爵令嬢ノーラとの関係について、デュメリー公爵邸でのガーデンパーティー以降どういったやり取りがあったのか――君の目から見た真実を、順を追って説明してくれ」


 ――なぜそんなことを、王太子殿下が調べていらっしゃるのですか?


 そう問いたかったけれど、とっさに言葉が出てこない。せめて聞かれたことにはしっかり答えようと、シュゼットは深く息を吸い込んだ。そしてあの日にあった事実を、一つ一つ丁寧に語った。


 ノーラが、コランティーヌを始めとした三名の令嬢に責められて泣いていたこと。それを止めようとして、シュゼットが口を挟んだこと。そしてその日を境に、自分が受けた仕打ちを――。


 どう行動すれば正解だったのか思い悩んで、何度も思い返しては反省を繰り返していた。そのおかげで皮肉なことに、いまだに全ての流れを鮮明に思い出すことができる。


 シュゼットが話しを終えると、王太子は静かに頷いた。


「……他の出席者、および使用人たちへの聞き取り内容と矛盾がない。シュゼット嬢、君の話を信じよう」


 その一言で、張り詰めていた体から力が抜けた。


(初めて、信じてもらえた……)


 たったそれだけのことが、これほど救いになるなんて――。


「ありがとうございます。でも……なぜ王太子殿下お自ら、このような調査を?」


 ずっと気になっていたことを問いかけると、レアンドルは一瞬迷うように目を伏せ、それから真っ直ぐにシュゼットを見た。


「ボーモン男爵令嬢の行動がおかしいと、デュメリー公爵令嬢から告発があった」


「コランティーヌ様が……?」


「ああ。そもそもデュメリー公爵令嬢がボーモン男爵令嬢を敵視していたのは、彼女の婚約者である私の弟に、言い方は悪いが……ことあるごとに言い寄っていたからだという。デュメリー公爵令嬢のやり方が正しかったとは言わないが、あのガーデンパーティーには釘を刺すために呼び出したらしい」


 ノーラは、ただの被害者ではなかった。前々から婚約者に近づくなと、コランティーヌから警告されていたのだ。それでもすり寄るのをやめなかったから、あの庭園での衝突が起きた。


「だがデュメリー公爵令嬢は高位貴族のプライドがあるから、あまり周囲に事情を語らなかった。一方でボーモン男爵令嬢は第二王子の方は本人も婚約者も手強いと見るや……ドゥヌーヴ侯爵令息に標的を変えた」


「ジャスティン様に!?」


「そうだ。君に辛く当たられていると嘘をつき、同情を引いたのだ」


 シュゼットの中で、色々なものが一本の線でつながってゆくようだった。あのとき訪ねてきて泣き崩れて見せたのは、コランティーヌよりもシュゼットの方が『甘い』ということを確認するためだったのだろう。


「それと、デュメリー公爵令嬢が君に辛く当たっていた件だが……ボーモン男爵令嬢に嘘を吹き込まれていたようだ」


「嘘を、ですか……?」


「君が帰宅した後、ボーモン男爵令嬢は引き留められて、もう一度デュメリー公爵令嬢に問い詰められたらしい。そこで怒りの矛先を逸らすため、ボーモン男爵令嬢は君の名を盾にした」


『コランティーヌ様は大した実力もないくせに家の力で調子に乗ってるって、バラデュール伯爵令嬢が言ってましたよ?』


「あのとき君が口を挟んだことも、招待客の前で公爵令嬢に恥をかかせるチャンスを狙っていたのだと、もっともらしく語っていたという。プライドの高いデュメリー公爵令嬢は怒りに任せ、その妄言を信じてしまった」


 シュゼットは愕然とした。あの針のむしろのような状況は、助けたはずのノーラが吐いた、その場しのぎの嘘が引き起こしていたのだ。


「現在、ボーモン男爵令嬢の虚言癖については王宮で正式な調査が進んでいる。聖女候補という立場を利用して嘘を振りまき、社交界を混乱させた。君は、その被害者の一人だ」


「そんな……」


 こんなときすら、上手く言葉が出て来ない。言いよどんでいるシュゼットの前に歩み寄り、レアンドルは微笑んだ。


「デュメリー公爵令嬢が、君に会って謝罪したいと言っている。拒否することもできるが、君はどうしたい?」


「ボーモン男爵令嬢のことを告発してくださったのは、コランティーヌ様だったのですよね……?」


「ああ。ドゥヌーヴ侯爵令息がボーモン男爵令嬢との婚約を正式に発表したことで、おかしいと気づいたらしい」


 コランティーヌの冷たい顔を思い出すたびに、未だに震えが走る。でも彼女は真実に気づいてすぐに、自らの罪を隠さずシュゼットの名誉回復に動いてくれたのだ。


 シュゼットは震える手をぎゅっと握りしめると、勇気を出して声を絞り出した。


「……コランティーヌ様に、お会いいたします」



   ◇ ◇ ◇



 コランティーヌとの面会は、王宮の一室で行われた。あの庭園の主だった令嬢は、すっかり覇気を失っていた。


「シュゼット様」


 コランティーヌは一度シュゼットの目をまっすぐ見つめて名を呼ぶと、深々と頭を下げた。公爵令嬢が伯爵令嬢に頭を下げるなど、平時であれば有り得ないことだろう。


「嘘の話に踊らされ、真実を確認すらせずに貴女を深く傷つけましたこと、弁解の余地もありません。本当に、申し訳ございませんでした」


 その声には、本物の後悔がにじんでいる。


「……お顔を上げてください、コランティーヌ様。わたくしも貴女が受けた傷に気づくことなく、一方的に貴女を責めるようなことを言ってしまいましたから」


 一度は、この人のことを深く恨んだ。けれど同じように傷つけられて、騙されていたと知った今、恨み続ける気にはなれなかった。ノーラが張った蜘蛛の糸に絡め取られたのは、この人も同じだったのだ。


「シュゼット様……」


 コランティーヌの目から、涙がこぼれた。


 その後、二人は並んでソファーに腰かけ、少しだけ言葉を交わした。ぎこちなく、けれど何の虚飾もない、たわいのない近況報告――シュゼットは口下手すぎる自分が少し恨めしかったが、コランティーヌは「その不器用なところが、むしろ信用できると気づいたわ」と、自嘲的な笑みを浮かべた。


 面会が終わり部屋を出ると、次の間にはまだレアンドルが待っていた。


「話し合いは終わったか?」


「はい。……殿下、このたびは本当にありがとうございました。お世継ぎという忙しい身で、このように臣下の問題に自ら親身にあたってくださるなんて……」


「私が自ら動いたのは、弟に頼まれたからだ。まあ王太子に直接目を見て問われたら、さすがに虚偽の証言をしようという不届き者は少ないからな」


「それは貴方が王太子だからではなくて、きっと貴方自身のお人柄ゆえに……その、僭越なことを申し上げてしまって申し訳ございません……」


 思わず本音を口にしてしまってから、シュゼットは真っ赤になって言葉を濁した。だがレアンドルは咎めることなく、目を細めてシュゼットを見る。


「あのような場面で、庇う声を上げられる者は少ない。君は確かに口下手のようだが、それでも勇気を出して立ち上がった。損をすると分かっていても他人のために動ける人を、私は好ましく思う」


 不意に、頬が熱くなった。あまり褒められ慣れていないから、どんな顔をしていいかわからない。


「あ、あの、私はただ、見ていられなかっただけで……」


「それが、本物の正義感というものだ」


 そう言って、レアンドルは穏やかに微笑んだ。


「バラデュール伯爵令嬢、いや、シュゼット嬢。改めて、君とゆっくり話がしたい。……また時間をもらえるだろうか」


 シュゼットが、どもりつつもなんとか返事を伝えると――レアンドルは嬉しそうに笑って、シュゼットが帰りの馬車に乗り込むまで見送ってくれたのだった。



   ◇ ◇ ◇



 全ての聞き取り調査を終えて、数日が経った頃――。ジャスティンは調査結果の通知を前にして、自室で青ざめていた。


 正義であると信じて婚約を破棄したあの日から、まだそれほど経ってない。だが真相の通知を受け取る前から、ジャスティンは後悔し始めていた。


 ――ノーラの素行が、目に余るのだ。


 婚約を解消して間もなく、ノーラはジャスティンに急速に近づいてきた。「ジャスティンさまだけが味方です」と大きな瞳を潤ませてすがる彼女を、最初は僕が守ってやらねばと思った。正義を貫いた己の選択は正しかったと、そう信じたかったのだ。


 だが婚約を結んで気が緩んだのか、彼女は使用人に対して驚くほど横柄な側面を見せ始めた。ジャスティンの前では楚々とした令嬢でいるのに、彼が見えなくなったとたん、別人のように高圧的になる。


『あたしを一体誰だと思ってるの!?』


 侍女がささいな失敗をすれば容赦なく怒鳴りつけ、買い物に行った先でも店の者を土下座させたことは一度や二度ではない。


 自分より弱い者を虐げる――それは、ジャスティンが最も許せないことだった。


 正義のために婚約者を切り捨てたはずが、その正義の剣で守った相手が、まさに自分が憎んだものと同じことをしていた。その事実は、彼の価値観を根底から覆すものだった。


 社交の場でも次期侯爵である彼の名を使って下位の令嬢に便宜を図らせたり、宝飾品を「ジャスティン様が贈ってくださるの」と勝手に注文したりする。


 そして何より――シュゼットに辛く当たられていたという話が、嘘だったのだ。


 王太子による聞き取り調査は、ジャスティンにも行われた。後日通知された結果には、次の事実が記されていた。


 ノーラがシュゼットに受けたという仕打ちは、全て虚偽だったこと。シュゼットがコランティーヌ達からノーラを庇ったという言葉こそが、真実だったこと。そしてノーラはシュゼットの優しさにつけ込んで、計画的にジャスティンに近づいたこと――。


『庇ってくれた相手をわざわざ悪く言う者が、いるわけがないだろう!』


 かつて自分がシュゼットに向けて放った言葉が、返す刃となってジャスティンを切りつけた。


(いたんだ、ここにいたじゃないか、庇ってくれた者を悪く言い、利用するような人間が……!)


 ――自分はそれすら見抜けずに、真実を訴える婚約者を捨てたのだ。


 自分は、正義感が強いと思っていた。弱い者を守ってやりたいと、本気で思っていたはずだったのに――。


 真実を見極める冷静さを持たない正義が、どれほど危ういものだったのか……ジャスティンは、今さら気づいてしまった。


(彼女こそが、本物の正義感を持つ人間だったのだ……!)


 かつて見た、シュゼットの笑顔を思い出す。口下手で、不器用で、でも困っている人を見て見ぬふりできずに手を差し伸べる。あのひかえめな微笑みが、自分は確かに好きだった。だがいつの間にか貴族らしく堂々と振る舞えない婚約者を恥じて、軽く見るようになっていたのだ。


(まだ、間に合うだろうか)


 今すぐノーラとの婚約を破棄して、シュゼットとの婚約を結び直せたら――わずかな希望にすがるように、急ぎバラデュール伯爵家に取り次ぎを頼んだ。だがその返答は、そっけないものだった。


『シュゼットは現在、王太子殿下との婚約に向けた準備が進んでいるため、面会をお受けすることができません』


 一瞬、意味がわからなかった。


(王太子殿下との、婚約だと……?)


 返答を持つ手から、力が抜けた。パサリとごく軽い音を立て、紙が床に落ちる。


 いっときの涙に踊らされ、本当に大切な人の言葉を嘘と断じた。正義の味方のつもりになって、表面的な、気持ちのいい言葉ばかりくれる相手を信じてしまった。


 あの調査結果を思い返せば、ノーラが『虚言をもって人心を乱した』として捕縛されるのは、時間の問題だろう。そしてバラデュール伯爵家による擁護の証言を得られないということは、自分も――。


(終わりだ、何もかも……)


 ――そのとき。窓の外から金切り声が聞こえた。ノーラが来ても門前払いするよう門番に命じていたのだが、それに対して文句を言っているのだろう。


 ノーラの涙をまだ信じていた頃の自分を、ぶん殴ってやりたかった。だがもう、何もかもが遅いのだ。


 シュゼットは、もう手の届かない場所にいる。ジャスティンが愚かにも手放してしまった宝石は、それに相応しい場所で磨き直され、輝こうとしている。


 ジャスティンは、現実から逃れるように手で耳を覆った。

 だが覆っても、耳障りな声は聞こえ続けた――。



   ◇ ◇ ◇



 ――翌年の春。


 新たな社交シーズンの開幕を告げる夜会にて、長らく空席だった王太子レアンドルの婚約者としてバラデュール伯爵令嬢シュゼットがお披露目された。


 大勢の貴族たちの前に立つのは、口下手で、人の輪に入ることが苦手な少女――では、なかった。


 堂々と背筋を伸ばし、シュゼットは自然に広間を見渡した。とはいえ、やはり心臓は嫌というほど跳ねている。レースの手袋に覆われた手のひらは、じっとりと汗に濡れていることだろう。それでも、もう俯(うつむ)かないと決めたのだ。


 あの日、レアンドルに信じてもらえた日から、自分の中で何かが変わり始めていた。


 内々に王太子との婚約を打診されてからの日々は、全く楽なものではなかった。夜遅くまで続く未来の外交を見すえた勉強は、元から真面目なシュゼットにとってそれほど辛いものではなかった。でも社交の場での上手な会話のこなし方の特訓には、何度も心が折れかけた。


 ――けれど、隣にはいつもレアンドルがいた。


「焦ってしゃべる必要はない。ゆっくりと、君のペースでいいんだ。偽りのない真心のこもった君の言葉は、飾らずともきっと相手に伝わるよ」


 その言葉を支えに、シュゼットは意識を変えた。口下手は、そうすぐには治らない。でも、本気で伝えたいという意志さえあれば、意外と耳を傾けてもらえるということを知った。


「本日は、お集まりいただき……」


 緊張に言葉が震えて、一度、深く息を吸う。でも、焦らなくても大丈夫――。


「……感謝を、申し上げます。この良き日より、わたくしシュゼット・オフェリー・ド・バラデュールは、王太子レアンドル殿下の婚約者として――」


 ――短い挨拶だったけれど最後までよどみなく言い切って、シュゼットは微笑んだ。


 一瞬の静寂のあと、広間に拍手が広がった。最初はぱらぱらと、だがすぐに満場の喝采へと変わってゆく。最前列に第二王子と共に立っていたコランティーヌが涙を浮かべて、誰よりも強く手を打っていた。


 隣に立つレアンドルが、傍らの婚約者にだけ聞こえるように囁く。


「立派だったよ」


 ――この人が隣にいてくれるなら、きっと強くなれる。

 シュゼットは笑みを返すと、そう心に誓った。






 Fin



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