狭き門 1話
夜の冷気が頬を撫でる。街灯が落とす橙色の光の斑点を踏み分けながら、僕はただあてもなく歩いていた。
頭の中は、まとまらない思考の糸でぐちゃぐちゃだった。生きること、明日のこと、自分という存在の希薄さ。必死に何かを考えようとすればするほど、思考は空回りして夜の闇に吸い込まれていく。
ふと足が止まった。
古びた食品サンプルが並ぶ、昭和の匂いを残した老舗の食堂。暖簾の隙間から漏れる黄色い光に引き寄せられるように、ガラガラと引き戸を開けた。
店内は薄暗く、油の匂いが染み付いていた。先客は一人。
カウンターの奥に座っていたその人物は、僕が入ってくるなり、丸っこい身体を揺らしてこちらを見た。派手な柄のブラウスに、妙に丁寧なおしろい。いわゆる、オネエ言葉で話すタイプの人だった。
「あら、いらっしゃい。こんな時間に珍しいわね、男前さん」
向こうからすり寄るように席を詰めてきて、馴々しく話しかけてくる。
正直、誰かと喋りたい気分ではなかった。その人自身にも、その甲高い声にもまったく興味が持てない。僕は頭の中の鬱屈とした思考を守るのに精一杯で、ただ生返事を返しながら、無愛想に口元だけを歪めて微笑んだ。適当にあいづちを打ち、会話の表面だけをなぞる。
やがて、注文したとんかつ定食が運ばれてきた。
サワクサクとした衣を噛み砕く音だけが、僕の孤独を繋ぎ止めている気がした。隣で煙草をくゆらせながら、身振り手振りを交えてとりとめのないおしゃべりを続けている。僕はとんかつを口に運び、時折うなずき、ただ淡々と咀嚼を繰り返した。
ソースの味が口の中から消え、最後の味噌汁を飲み干したときだった。
そのオネエの彼がふっと声を落とし、丸い目をじっとこちらに向けてきた。
「ねえ……私ね、行くところがないのよ。寝る場所も、どこにもないの」
「……」
「だから今日、あなたについて行っていいかしら? ホテルで寝かせてちょうだい」
唐突で、厚かましい要求だった。断るのが筋だし、ホテルに連れ込むなんてどう考えても気が引ける。けれど、彼の瞳の奥にへばりつくような「何か」を見返したとき、強く拒絶するエネルギーすら僕には残っていなかった。
「……ホテルは無理です。ネカフェなら」
店のすぐ近くにあった、24時間営業のネットカフェ。湿ったカーペットの匂いと、PCのファンが回る重低音が立ち込める暗い空間。
受付を済ませ、狭い個室が並ぶ廊下を歩く。僕の部屋は「104」、彼はその隣の「105」。
彼が鍵を受け取り、105号室のドアノブに手をかけたその時だった。
向かいの「108号室」のドアがスッと開き、男が一人顔を出した。
ボサボサの髪に、焦点の合わない目。その男は隣の彼の顔を見るなり、低くしわがれた声を漏らした。
「……なんだ、やっぱりお前か。追ってきたのか」
彼の手が、ドアノブの上でピタリと止まった。
いつでも饒舌だった彼の口から、すっと表情が消える。丸い顔の肉が弛み、まるで精巧な仮面のような無機質な顔つきに変わっていた。
「……あら、偶然ね。『先生』」
彼はいつもの甲高い声ではなく、地を這うような低い男の声でそう呟いた。
「嘘をつけ。お前がここに来ることは分かってたんだ。あの店で『それ』を食うこともな」
向かいの男——「先生」と呼ばれた人物は、僕の顔をちらりと見た。その目は、僕を見ているのではなく、僕の胃の中……さっき食べたばかりのとんかつを見透かしているかのように冷たかった。
「おい、あんた」
先生が僕に話しかけてくる。
「そいつと一緒にいたのか? ……手遅れになる前に、腹の中のものを吐き出したほうがいいぞ。そいつが選ぶ店で出される肉が、何の肉か知ってて食ったのか?」
頭の中で、不穏な警報が鳴り響く。
街灯の下で抱いていた漠然とした不安が、一気に生々しい「狂気」として形を結び始めていた。
隣の彼が、ゆっくりと僕の方を振り返る。
その口元には、僕が食堂で見せたのと同じような、無愛想で、貼り付いたような笑みが浮かんでいた。
「静かにしなさいよ、先生。……この子、せっかく私の『お友達』になってくれそうなのよ?」
狭くて暗いネカフェの廊下に、異質な静寂が満ちていく。
僕は二人の視線に挟まれたまま、冷や汗が背中を伝うのをただ感じていた。




