乙女座の乙女は、女神になった
御花くらげ。今、目の前に、自転車の前に立って黒髪を靡かせて笑っている少女は間違いなく恋に恋する乙女座の乙女。御花くらげであった。
いいや、違う。この少女は御花であって御花ではない。
だがしかし、もしかしたら、
御花なのかもしれない。
御花のはずだ。
御花に違いない。
藁にも縋る気分で震わせながら彼女に聞いた。
「御花さん......ですか......?」
「もちろんだとも調君。正真正銘、私は御花そのものに決まっているじゃないか」
彼女に対する俺の呼び方も、俺に対する彼女の呼び方も、冷たい声も聞くに、やはり、彼女は御花ではない。
そんなことは、つい先日まで茶髪の彼女が黒髪になっている時点で分かっていたのに、その事実を認めたくないあまりに無駄な会話をしてしまった。
しかし、ここから一体どうするべきだろうか。自転車は彼女が遮り、頼みの野間野は死亡した。逃げ場所なども見当たらない。学校に連れていく訳にもいかない。ぶっ殺してやりたいが、野間野を殺害している時点で戦っても勝ち目がないことは明白だ。
ただひたすらに、現状突破と打開策を考えるが、どの案も策も、かかる時間は違うだけで最終的には全て死というたった一つの真実に繋がった。
言葉が通じるのであれば、体を返してもらうのは無理でも、もしかしたらこの場からは離れられるかもしれない。ダメ元でも、やるしかないのだ。
「違いますね。あなたは御花くらげじゃない」
「さっきからずっと何を言っているんだい? 私が御花くらげじゃなければ誰が御花くらげだって言うのかね?」
確実にそんなはずはないのに、何故か彼女が御花な気がしてきた。
いいや、彼女は御花じゃない。絶対に。しかし、何故だかその意識が猛烈に薄れていく。恐らく、煙導のせいだろう。一瞬でも無意識になれば俺は彼女を御花くらげだと錯覚してしまう。
違う。違う。彼女は彼女ではない。脳内で『違う』という言葉を繰り返す。
「確かにあなたは御花くらげですよ。でも、それは見た目だけです。あなたは、言葉も、見た目も、何もかもが違う」
「人は常日頃から変化していくものだよ調君。急に私が性格も見た目も変わっても、それが私であることに変わりはない」
「常識的に考えて、変化というものは普通、ゆっくりとしていくものです。急に変わるものじゃない。それが生物でなら尚更です」
「調君の言う常識や普通は君から見た普通、あるいは歴史に関する普通だろ? 持論を一般論のように扱うのは辞めたまえ。一人間が急に変わることなんてどこにでもあることさ。調君が決めることじゃない」
彼女は淡々と言葉を繰り返す。このままでは埒が明かない。
「もういいでしょう。隣にバラバラ死体があるのに喋っている時点でこの会話に常識や普通なんてものには価値はない。単刀直入に聞く。あの娘と野間野さんに何をした?」
そう聞くと、彼女は笑いを止めた。いや、厳密には笑い方を変えた。誰に対しても元気に振る舞う笑顔から、誰に対しても見下す笑顔へと。
「ハハハ! 確かにな。お前の言う通りだ。こんな会話に意味はない。現に何度も蠅を送っているのに未だ歯向かう素振りを見せる。では単刀直入に答えるとしよう。我様はこやつの身体を借りさせて貰った。隣で死んでおる女は昨夜我様に無謀ながら挑んで来たので、このように、蝿に食わさせて貰ったという訳だ。質問は以上かね?」
彼女、いや、便宜上彼と呼ばせてもらおう。
ともかく、彼はそんな悪役チックな台詞を、それが自然の摂理かのように話した。
「いいや、まだ一つだけ。目的は何だ? そのまま御花の身体を使って好きに生きるつもりか?」
「ハハ! そんな小さなことなどせんわ。この身体は非常に馴染むのでな。そのような勿体ないことはせん。 我様が成すことはただ一つ。神になることだとも」
「驚いた。妖怪でも冗談を言うんだな」
「冗談などではあらんぞ。簡単に噓をつく人間と、あるがままに生きる妖怪と一緒にするではない」
「随分と都合のいい言葉を使うんだな。あるがままに生きるだと? 常識をわきまえずに自分勝手に生きているだけなのに」
変に意地になって、殺されるかもしれないのに意地の悪い言葉を紡いでいく。
彼は依然、笑みを止めない。
「ハ! それは集団ではないと何も成せん烏合が作った物だ。妖怪とは一人で生きていく者だぞ。どうして従う必要がある? ましてや我様は神となる身。我様が規則であり、我様こそが全であるぞ」
「人の姿に寄生しないと生きていけないのにか? 天然ボケもいい加減にしろよ」
瞬間、《《煙》》が左腕に纏わりついた。そしてすぐに煙は晴れた。
目をやると、俺の腕の皮は全て剥げ、肉がむき出しになっていた。
あまりの激痛に言葉の出ない叫びが出る。風が吹く度に更なる衝撃が走る。幸い、半端者である俺には激痛で済んでいるが、普通の人間であれば、とっくのとうにショック死しているだろう。
「我様の笑い声が一文字になっている内にその口だけを辞めておれば肉だけの腕にはならんのにな。さらばだ、愚かな人間よ。そのまま血を出し続け、激痛と共に死ね」
そう言って、彼は背を向けて歩き出した。
腕を抑えて血を出しながら、肉だけを超え、腕だけになろうとも、それでも脂汗をかきながら余裕そうな笑みを浮かべる。
「なっさけねえな......」
足を止めた。止めただけで、振り返ろうとはしない。
「神になろうって奴が、お前の言う愚かな人間に口論で負けて暴力に走って逃走って。三下中の三下じゃねえか。お前よりも強い奴にもそうやってみじめに死ぬのが望みなのか?」
自称神が振り返る。そこには笑いはなく、蔑みもなく、憐れみもなかった。目を背いても、目を見ても殺されそうな、感情が全て憎悪に支配された少女の姿があった。
「もう一度言ってみろ」
「言葉の意味が分からなかったか? お前は神にはなれねえよ。人の言葉に耳を傾け、それに対して本気にしちまうような奴が神だと? 笑わせるのもいい加減にしろよ」
少しずつ皮が生えつつある腕を抑え、ゆっくりと彼の方へと向かっていく。
「いいか......神に等しい奴ってのはな......自分勝手で人を振り回して、それでもその自分勝手は世のため人のために振るう自分勝手なんだよ。お前は神でも妖怪でもない。ただの半端者だ。少なくとも、ただの人間一人殺せない内はお前は何にもなれねえよ」
同じ半端者の自分が言うのもおかしな台詞だが、今目の前の半端者は怒りに囚われすぎているのか、それとも、興味の対象になっていないのか、治っている俺の腕には目を配らなかった。
「良いだろう。お望みどおり殺されたいようだな」
彼の周囲には、細かな煙が立ち込めていた。
「いいのか? お前が今殺してしまえば、お前は俺に口で負けてムキになってケガをさせたあげく、そのケガ人を殺した情けない神としてその名を轟かせることになるぜ」
「その事実を知るのはお前と我様だけだ。誰にも語られなければ、轟くこともない。幸い、お前を殺すことなど、蠅がハエたたきを避けることよりも容易い」
絶えず煙は憎悪のように出続ける。
「そうだな、俺達だけだ。俺も簡単に殺されるだろう。だが、いつでも殺せるっていうのなら、別に今じゃなくてもいいだろ?」
「今更命乞いか?お前の言う通り、人の言葉に耳を傾けない我様にか? ハハ!ハハハ!笑わせてくれる。滑稽さを見せた褒美だ。最後に何かさせてやろう。この娘の身体でも使うか?」
「命乞いじゃねえし、使いもしねえよ。決闘しようぜってことだよ。神殺しをしようとする青年と正々堂々勝負して戦って殺した方が、お前の自慢話になるだろ?」
彼は少し考えた後、こう言った。
「良いだろう。お前が死ぬのには変わりない。その勝負受けてやろう。そして正々堂々素手勝負で戦って殺ろう」
「それじゃあ、今日の23:45。皆国神社でお前と俺が初めて会ったあの社で会おう。負けたら、御花の身体は返してもらうぞ」
神は笑いながら頷き、その場から去っていった。
ああ、死ぬかと思った。
我慢していた足の震えを放出し、俺は野間野の死体に近づいた。
「また少しだけ力を借りますね」
そう言い、俺は蠅の集った野間野の死体を食い始めた。
少しずつ。少しずつ。だけど早く。嘔吐を我慢しながら、少しずつ。服に血がつかないように。
「ごちそうさまでした」
野間野の死体は、正座をして手を合わせた頃には、地面に付着しきった血以外に綺麗さっぱりなくなっていた。
俺が野間野の死体を食したのは、別に俺に人食趣味があるわけでも、ゾンビな訳でも、吸血鬼な訳でもない。
生き物が別の生き物の死骸を食べて強くなるように、人外もまた、別の人外の死骸を食して強くなるからだ。人外全てがそうではないし、俺もまだ俺以外にそのような人外に会ったことはないが、少なくとも俺はそうだった。
俺は、彼女の体を食すと、24時間限定で逸脱した運動能力と回復が更に早くなる。
だが、今のところ食しているのは彼女だけで、他を食べたらどうなるかは知らない。知りたくもない。
必死に吐き気も嗚咽も恐怖も我慢し、俺は決戦に向け、心の準備をしながら自転車にまたがって学校へと向かった。




