第2話 回復薬は棚に並んでいる
影の奥で光った二つの点は、瞬きもしなければ、揺れもしなかった。
ユウは回復薬の袋を握りしめたまま、息を殺して耳を澄ます。
風の音。
瓦礫の擦れる音。
自分の心臓の音。
……それだけ。
「……猫とか、そういうやつであってくれ」
願うように呟いて、一歩だけ前へ出る。
床に散ったガラス片が、かすかに鳴った。
二つの点は、すっと消える。
光の反射――ただそれだけだったのかもしれない。あるいは、こちらが見たと思った瞬間に、見られない場所へ下がったのか。
分からない。
分からないことだらけの世界で、分からないものに怯えていたら、たぶん歩けなくなる。
ユウは喉を鳴らし、握っていた袋をポケットに押し込んだ。ポケットは浅く、半分はみ出る。落としそうだ。
「……あとで考える」
自分に言い聞かせて、瓦礫の隙間を抜ける。
崩れた建物の並びの中で、比較的“形”が残っている建物があった。看板のフレームが辛うじて立っていて、剥げた文字が読める。
《ヘルス》《サポート》《ステーション》
そして、端の小さなロゴ。
《弊社》
「また……」
呆れと、嫌悪と、妙な安心が混ざった声が出た。少なくとも、ここは“何かのルールの中”にある。完全な無法地帯よりは、生き残る確率が高い……気がする。
入口のガラスに、広告の名残が貼り付いていた。
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言葉だけは知っているのに、現実として並ぶと胃のあたりが冷える。
自動ドアは半開きで固まっていた。
ユウは体を横にして、隙間から中へ滑り込む。
外より暗い。空気が重い。
埃の匂いの奥に、薄い薬品の残り香があった。鼻の奥が、ちくりとする。
「……薬局、だよな」
店内には倒れた棚がいくつも転がり、通路が歪んでいる。床には空箱と、割れたプラスチックと、茶色く変色した紙。時間がこの場所を食い荒らした痕跡だ。
ユウは棚の一段目を指でなぞった。
指先が白くなるほどの埃が付く。
それでも、棚の奥には商品が残っていた。
銀色のパッケージ。
白地に青い帯の箱。
似たような形の小瓶。
――回復薬。
「……やっぱりここか」
さっき拾った袋と同じ文字が、棚の端から端まで並んでいる。
回復薬。
回復薬。
回復薬。
薬局って、こんなに回復薬ばかり置くものだったか? 風邪薬も胃薬も目薬も、もっと色々あったはずだ。なのに、目に入るのは“回復”の二文字ばかりだ。
ユウは一つ手に取り、箱を開ける。
中には小さな瓶。薄い青色の液体。
匂いはない。
振ると、ちゃぷ、と控えめな音がした。
裏面の文字はかすれているが、読める単語がある。
《第三世代再生促進剤》
《投与対象:端末認証済み個体》
《弊社製》
「……端末認証、って」
ミオの言葉が蘇る。
体内端末。
認証。
サービス。
この世界では、人間の体が“サービスの入口”になっている。
それが当たり前。
当たり前だから、薬にも書いてある。
ユウは瓶を見下ろした。
青い液体が、無言で揺れる。
「飲んだら……どうなる」
喉は渇いている。体もだるい。飲めば楽になるかもしれない。
でも、飲めば“何か”が始まる気がする。
さっきの袋の《弊社》と同じだ。優しさの顔をした管理。
ユウは瓶を箱に戻し、棚を見渡した。
在庫は多い。
多すぎるほどに。
店の奥、カウンターの裏、床に落ちた段ボールの中……回復薬が、まるで備蓄品みたいに積まれている。
「……ここ、店じゃなくて倉庫か?」
視線を動かすと、壁に貼り紙があった。
《緊急時は二階へ》
《投与は端末認証後》
《端末停止中の投与は重度ペナルティ対象》
《弊社の指示を待て》
「ペナルティ……」
薬を飲むことに罰がある世界。
ユウは背筋が冷えた。
貼り紙の下に、古いパンフレットが束になって落ちていた。紙は湿気で波打ち、角が千切れている。だが見出しだけは読める。
《あなたの“体”をアップデートしよう》
《端末の埋め込みは五分で完了》
《痛みは最小限》《翌日からフルサービス》
「……やめろ」
思わず声が漏れた。
ユウはパンフを放り投げ、奥の扉を開ける。鍵は壊れていて、簡単に開いた。
小さな処置室だった。
椅子が一脚。天井から吊られたライト。壁際の棚には、透明なパックに入った器具が並んでいる。
細い針。
金属のカプセル。
皮膚を開くための刃。
そして、ラベル。
《体内端末 標準モデル》
「……うわ」
喉の奥がひりつく。
ミオが言っていた“普通”は、これだ。人間の体を開いて、端末を入れて、閉じる。それが日常の、健康管理の一部。
ユウは反射で扉を閉めた。
「……俺、ここに来る世界線じゃなかっただろ」
自分の言葉が頼りない。けれど、吐き出さないと飲み込まれそうだった。
カウンターの上には薄い板状の端末が置かれていた。レジというより、認証機だ。画面は割れているが、刻印だけは読める。
《ローカルネット接続用/弊社認証必須》
「ローカルネット……」
ネットは生きているのか?
ミオの言葉の端々が、妙に現代的だった。マップサービス。ダウンロード。進捗。なのに、北海道は存在しない。
ネットがあって、地名がない。
それはつまり――世界が、閉じている。
ユウは端末に触れようとして、手を止めた。
今はやるな。
今は“生きる道具”を集めろ。
そのとき、カウンター脇に布の塊が見えた。
リュックだ。
黒く汚れ、肩紐が少しほつれているが、背負えそうな形。
ユウは拾い上げ、口を開ける。
中は空っぽ。
内側に縫い付けられたタグだけが、やけに綺麗に残っている。
《貸与品/返却義務》
《未返却の場合は端末停止措置》
「……やっぱり管理じゃん」
吐き捨てるように呟く。
でも、背負えるものは必要だ。ユウはリュックを肩にかけた。
回復薬を詰める。
まずは箱ごと――と思って、すぐに止める。
箱がかさばる。
この世界で荷物を持てる量は、そのまま生存率だ。
「……箱、いらないな」
ユウは箱を開け、瓶だけを取り出し、リュックの底に並べた。次の箱も。次も。
床に空箱が積み上がる。
「ケチくさい……」
思わず口に出る。
誰もいないのに、“誰かの目”を気にしてしまう自分が情けない。
でも、正しい。
ぎっちぎちに詰めれば、同じリュックでも倍は入る。
ユウは瓶を押し込みながら、ふと思った。
もしミオがここにいたら、こういう行動も「最適化」とか言って肯定するのだろうか。それとも「規約違反です」と言うのだろうか。
どっちでも嫌だな、と思った瞬間、少しだけ笑いそうになった。
棚の奥へ進むと、薬以外の金属が見えた。
拳銃。
その隣に、長物――ライフルらしきもの。
「……え?」
薬局に銃。
あり得ない、と言いたい。だが、処置室の器具と貼り紙を見れば、“あり得ない”ほうがあり得ない。
入口付近の棚が、意図的に積まれている。机と椅子が組まれ、壁のようになっている。
簡易バリケード。
その裏に弾薬箱がいくつも転がっていた。
ユウは弾薬箱の蓋を開けた。
整然と並んだ弾。
錆びていない。
「……まだ使えるのか」
銃に触れる手が、少しだけ震えた。
銃はニュースでしか見たことがない。ゲームの中では何百回も撃った。けれど現実の重さは、画面の中の比喩と違う。
重いのは金属だけじゃない。
それを使うということが、重い。
ユウは拳銃を手に取り、銃口を床に向けたまま構える。
引き金に指はかけない。
マガジンを抜いて、中を確認する。……そんな手順、本当は知らない。知っているのは映画と知識の寄せ集めだ。
それでも、やらなきゃ死ぬかもしれない。
「……使う日が来ませんように」
祈りみたいに呟いた瞬間だった。
外から、声が聞こえた。
「……たす、けて……」
かすれた声。
ユウの背中が固まる。
もう一度。
「助けて……!」
今度ははっきり。
声は、薬局の裏手――通りの向こうからだ。
ユウはバリケードの陰に身を沈め、そっと外を覗いた。
通りに、男が倒れていた。
腕を伸ばし、地面を掻いている。爪が割れ、血が砂に吸われる。
そして男の脚に、異様に長い影が絡みついていた。
四足。
関節の位置がずれている。
皮膚が裂けて、筋肉が見えているように見えるのに、血が出ていない。
目だけが、ガラスみたいに光る。
「……モンスター」
男が叫ぶ。
「助け……っ」
声が途切れた。
ユウの喉が詰まる。
助けたい。
でも、距離がある。
撃てば当たるか分からない。
撃てば、こっちが見つかる。
それに――あれを撃って止まるのか?
分からない。
分からないことに弾を使うのは、賭けだ。
その賭けに自分の命を乗せられるほど、ユウはまだ強くない。
「……ごめん」
声にならない謝罪が、胸の内で沈んだ。
そのとき、反対側で銃声が響いた。
乾いた破裂音が連続する。
怒号。
「動くな!」「荷物置け!」
別の通りだ。
ユウは視線を移した。
そこにいたのは、五人の集団。
全員、女性だった。
年齢はばらばら。髪型も服も違う。だが、動きに無駄がない。互いの位置を確認し合い、声を飛ばし、誰かが誰かを支えている。
そして彼女たちを追う男が三人。
銃を持っている。
動きが荒い。統率がない。
盗賊――そう呼ぶしかない。
さらに、その周囲をもう一体のモンスターがうろついていた。
まるで、どちらの味方でもない顔で。
「……最悪の配置だろ」
ユウは状況を頭の中で組み立てた。
男一人、モンスター一体――裏手。
女性五人、盗賊三人、モンスター一体――正面。
全部を救うことはできない。
救おうとすれば、たぶん全員死ぬ。
ユウは拳銃を握りしめた。
手の震えが止まらない。
怖い。
でも、見て見ぬふりをしたら、たぶん自分は壊れる。
「……盗賊だけなら」
距離を取って。
遮蔽物を使って。
上から撃って。
ゲリラ戦なら、いけるかもしれない。
モンスターは無理だ。
あれは、人間のルールの外にいる。
ユウは歯を食いしばった。
「……頼むから」
心の中で叫ぶ。
「モンスターの相手くらい……そっちで何とかしてくれよ……!」
リュックを背負い直す。瓶が小さく鳴る。
回復薬という名の不気味な希望が、背中で揺れる。
ユウは二階への階段を見上げた。
壁の貼り紙が、埃にまみれたまま残っている。
《緊急時は二階へ》
緊急時って、今じゃないのか?
ユウは一段目に足をかけたところで、ほんの一瞬だけ止まった。
自分は、さっきまで中学生だった。
少なくとも、そんな感覚がある。
なのに今、銃を持って、人を撃とうとしている。
世界のほうが先に狂っているのに、自分が狂ったみたいな気分になる。
「……生きる」
ミオの声が頭に浮かぶ。
生きてください。
仕事です。
その言葉が、今は妙に現実的だった。
ユウは階段を上がった。
外で、また悲鳴が上がる。
ユウは銃を構えた。
引き金に、指を添える。
(つづく)




