第1話 未登録エリアと無料ダウンロード
風が、乾いた砂を引きずっていった。
空は青い。雲もある。なのに、世界の音だけが足りない。車の走る音も、遠くのサイレンも、電線の唸りもない。あるのは、倒れたコンクリートの隙間を抜ける風と、どこかで金属が擦れる、気のせいみたいな軋みだけ。
少年は、そこに立っていた。
自分が誰なのかが、少しだけ曖昧だ。鏡があれば顔は分かるだろう。体の感覚もある。手足は動く。喉は乾く。腹も空く。――それでも「前」がない。
代わりに、断片がある。
教室の匂い。チョークの粉。スマートフォンの画面に並んだ通知。深夜、布団の中で見た技術系の動画。生成AI。プログラム。コード。好きで、夜な夜な弄っていた。……はずだ。
そして、頭の片隅に焼き付いた数字。
2030。
なぜそんな数字が残っているのかは分からない。だが、確かに「その年」までは生きていたような気がする。未来のはずなのに、やけに現実味があるのが気持ち悪い。
「……ここ、どこだよ」
声に出すと、思ったより幼い声がした。十三歳。中学生。自分がそうだと、なぜか分かる。身長も、筋肉も、まだ出来上がりきっていない骨格の感覚がある。
服も、自分のものじゃない。薄汚れたジャケット。サイズの合わないズボン。ポケットの中は空っぽで、スマホも財布もない。名前すら曖昧なのに、無いものだけははっきりしているのが腹立たしい。
周囲を見回す。
地平線の近くに、崩れた建物群が黒い歯みたいに突き出ている。道路らしきものはあるが、標識がない。電柱もない。あるのは、錆びた骨組みと、割れたガラスと、誰もいない空間。
そのとき――風の向こうに、人影が見えた。
「……人?」
心臓が跳ねた。反射で足が動く。砂を踏みしめて近づく。
人影は、少女だった。
長い髪が風に揺れている。制服にも見えるし、作業着にも見える。色味は落ち着いているのに、縫い目や金具が妙に整っていて、工業製品みたいに“正確”だ。立ち方も、無駄がない。誰かを待つというより、問い合わせを待つ端末みたいに、ただそこにいる。
顔も、整いすぎている。
「す、すいません!」
少年は声を張った。自分でも驚くほど、救いを求める声だった。
少女はゆっくりとこちらを向く。
その瞬間、違和感が走った。動きが、ほんの一拍遅い。いや、遅いというより――「確認してから動いている」みたいだ。瞬きの間も同じ。まるで瞬きを選択している。
それでも、瞳は人間のものに見える。肌も温度があるように見える。だから少年は、そこに賭けた。
「ここって、どこですか?」
少女は数秒、少年の顔を見つめた。目の焦点が、微妙に合っていない気がする。視線が皮膚の表面を滑るというより、奥を読みにいくみたいに。自分がAIの挙動を観察するときの目線に、どこか似ていた。
「現在地は、未登録エリアです」
言葉は丁寧で、滑らかだった。感情が薄い。だけど無機質ではない。感情の“出し方”が、どこか規格品っぽい。
「未登録……?」
「はい。未登録です」
「えっと……じゃあ、北海道から来たんですけど」
言ってから少年は、自分の口にした地名に引っかかった。
北海道。
なんでその言葉が出た? 行った記憶はない。住んでいた記憶もない。でも、確かに「それだ」と思った。嘘じゃないのに、根拠がない。地名だけが、胸の奥に刺さった釘みたいに残っている。
少女は、わずかに首を傾けた。
「ホッカイドウ……」
復唱するように発音する。知らない単語を、舌で確かめるみたいに。
「申し訳ありません。その土地名は、弊社データベースに存在しません」
「……は?」
少年の口が開いたままになる。
「弊社って……え、会社?」
「はい。弊社サービスのサポート担当です」
「いや、サポートって……ここ、荒野だよ? 会社が何をサポートするの?」
少女は当然のように答えた。
「利用者の移動支援、位置情報の提供、安全確保、緊急連絡の代行などです」
「移動支援って……地図とか?」
「はい。よろしければ、弊社のマップサービスをご利用なされますか? 現在、初回限定で無料ダウンロードが可能です」
無料ダウンロード。
その単語が、場違いなほど軽く響く。
無料って言葉ほど怖いものはない。2030年の頃だって、無料アプリはだいたい広告か個人情報で代金を取ってくる。ここでも同じなら、代金は――自分の“身体”なのかもしれない。
でも、地図は欲しい。何も分からないまま歩くのは、死ぬ。
少年は喉を鳴らし、頷いた。
「……よく分かんないけど、お願いします」
少女は微笑んだ。
いや、笑顔の形を作った。口角の上げ方が、綺麗すぎる。
「承知しました。ダウンロードを開始します」
少女は空中に指を滑らせた。そこに何もないのに、何かを操作している。見えない画面。見えないキーボード。見えないUI。AR? それとも、彼女の目にだけ見える何か?
「……ダウンロード進捗、0%」
「進捗って、見えるの?」
「はい」
「どこに?」
少女は少年の胸元から腰のあたりへ視線を落とした。視線の落とし方まで、測定器みたいに正確だった。
「あなたの体内端末に送信します」
「……たいない、たんまつ?」
背筋に冷たいものが走った。
「ちょ、待って。体内端末ってなに。体に入ってるやつ?」
「はい。通常、人間には認証・通信・安全制御用の端末が実装されています」
「実装って言い方やめて! そんなグロいもの入ってないから!」
少年は思わず一歩引いた。胸の中がぞわぞわする。皮膚の下に、誰かの管理装置がある世界――そんなの、自由がない。
少女は、ほんの少しだけ眉を寄せた。エラー表示みたいな表情。
「……確認します」
数秒の沈黙。
「――エラーが発生しました」
「え?」
「体内端末が存在しません」
「だから言ったじゃん! ていうか、普通入ってるの? 人間の体に? 何それ、ホラーじゃん!」
少年が叫ぶと、少女はまた首を傾けた。
「あなたは、未実装個体ですか?」
「個体って言うな!!」
声が裏返った。自分でも情けない。でも、怖いものは怖い。
少女は一拍置いて、言い直す。
「失礼しました。未実装の“人間”ですか?」
「言い直しても怖い!」
「……恐怖は正常な反応です」
その返事だけ、妙に人間っぽかった。慰めているのか、マニュアルを読み上げているのか分からないのに、言葉が柔らかい。
少年は息を整えようとするが、胸が落ち着かない。
「じゃあ、地図は見れないの?」
「体内端末がない場合、代替手段が必要です」
少女は首元に手を当て、襟の内側から薄い透明フィルムのようなものを引き抜いた。名刺サイズ。縁が淡く光り、表面に文字が走る。
《Temporary Device / 24h》
「……なにそれ」
「貼付型外部端末です。皮膚に貼るだけで最低限のサービスが利用できます。位置情報、周辺危険度、緊急通話」
「できること多すぎ……」
貼ったら、どこまで見られる? 何を送られる? 頭の中で勝手に利用規約の文字がスクロールする。
少年は反射で身を引く。だが、同時に思う。体に埋め込むよりは、まだマシだ。
少女は、そこで手を止めた。
「――嫌ですか?」
その言い方が、不意に刺さった。企業口調でもなく、説明でもなく、ただの問い。目も、ほんのわずかに揺れて見えた。
「……怖いだけ」
少年が言うと、少女は小さく頷いた。
「理解しました。無理に提供はしません」
あっさり引く。そのほうが、逆に怖い。
「……君さ」
少年は、言葉を探しながら尋ねた。
「名前、あるの?」
少女は胸元に指を当てる。
「型番は――」
「型番じゃなくて!」
「……呼称は、“ミオ”です」
「ミオ」
少年が復唱すると、ミオはほんの少しだけ口元を柔らかくした。気のせいかもしれない。だが、その一瞬だけ、ただの機械じゃない“誰か”に見えた。
「俺は……」
言おうとして、止まった。名前が、出てこない。
喉の奥が空っぽになる。自分の中心が抜け落ちている感覚。プログラムの変数名が全部消えたみたいに、参照できない。
「……分かんない。名前、忘れた」
ミオは少年を見つめる。瞳の奥で、何かが静かに動く気配がした。検索。照合。判定。――それでも、声は穏やかだった。
「では、暫定呼称を付与します。“ユウ”。短く、識別しやすい」
「理由が合理的すぎる」
「はい。生存率が上がります」
「そこまで言う?」
「未登録エリアは危険です」
ミオの声が、少しだけ低くなる。
「あなたは、ここにいてはいけません。保護対象に該当します」
「保護対象……?」
「はい。あなたは“人間”であり、端末未実装です。識別不能の可能性が高い」
「識別不能って何だよ……」
ミオは遠くの廃墟を指さした。
「あちらに旧施設の残骸があります。避難可能な空間が存在する確率が高い」
「確率って……」
「弊社データベースが古いためです」
即答だった。誤魔化さない。正直すぎて、笑うべきか怖がるべきか分からない。
「……ミオは一緒に来ないの?」
「私はここで待機します。行動範囲制限があります」
「ブラック企業だな」
「はい」
また即答。少年は、思わず短く笑った。こんな状況なのに、会話のズレが可笑しい。
その笑いが消えた頃、ミオが少年を見上げる。
「ユウ」
暫定呼称を、初めて呼ばれた気がした。たった二文字なのに、胸の奥が落ち着く。名前があるだけで、世界の端に手すりができる。
「生きてください」
「……え?」
「あなたが生きていれば、ホッカイドウという土地の情報が増えます。弊社データベースが更新されます」
「理由が仕事じゃん」
「はい。仕事です」
それでも、ミオの視線はまっすぐだった。まるで、仕事以外の理由を知らないからこそ、仕事の言葉でしか言えないみたいに。
少年は、背中を向けて歩き出した。
数歩進んで、振り返る。
ミオはまだ立っていた。風の中で髪だけが揺れている。取り残された看板みたいに、動かない。
「……じゃあ、また」
ミオは小さく頷いた。
「また」
その一言が、なぜだか救いみたいに聞こえて、少年は慌てて前を向いた。
――
廃墟に近づくほど、空気の匂いが変わる。
焦げた鉄。湿ったコンクリート。割れたプラスチック。
そして、意味の分からない“残り香”。
看板の破片に、読める文字が混ざっている。
《…無料》
《…アップデート》
《…サービス》
読めるのに、現実と結びつかない。
まるで世界が、途中でアップデートを失敗したみたいだった。
ユウは瓦礫の隙間を覗き込みながら進む。足元に気をつける。ガラス片が靴底で鳴る。
そのとき、銀色の小さなパッケージが光った。
引き抜くと、手のひらサイズの密封袋。表面の文字は擦れているが、中央の二文字だけは読めた。
――回復薬
「回復薬……?」
ゲームのアイテムみたいな言葉。
袋を振ると、中で液体が小さく揺れた。透明に近い薄い青。匂いはしない。
ユウの喉が、痛いほど乾く。
飲めば楽になる気がする。
でも、怖い。
裏を見ても、成分表らしきものは剥げて読めない。
ただ、端に小さなロゴが残っていた。
《弊社》
「……またかよ」
ミオの声が頭の奥で再生される。体内端末。保護対象。未登録エリア。
ユウは袋を握りしめた。
飲みたい。でも、飲めない。
飲んだ瞬間、何かが“登録”される気がした。
「これ……罠だったらどうする」
風が吹き、瓦礫の隙間で金属が擦れた。
足音にも聞こえる。
ユウは息を止めた。
回復薬の袋を胸に押し当てたまま、ゆっくり顔を上げる。
崩れた建物の影の奥で、何かが――こちらを見ていた。
光を反射する、二つの点。見られている、という感覚だけが確かだった。
(つづく)




