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【小説】匣入り娘

掲載日:2025/12/15

 エレベーターのないマンションの階段を昇って帰宅する度にウンザリする。

 次は2階か3階、そうでないならエレベーター付きの物件に住もう。そうして帰るヨロコビってのを噛み締めるんだ。

 おれは足を引き剥がすように階段を上がり、どうにか今日の勤務を終えた。そうだ、帰宅するまでが勤務だ。タイムカードを切るなら本当はこのタイミングだ。

 だがおれは資本主義の犬だ。賃労働の眷属だ。


 

 鍵を差し込んでドアを開けるとそこに匣があった。

 匣だ。ご丁寧にサンダルと運動靴は玄関の端によけられている。

 部屋を間違えたか?それとも気の効く宅配便屋が大家に頼んで部屋の中に置いたか?そうでなけりゃおれが狂ってるってことだ。それなら歓迎する。

 だがあらゆる可能性は排除される。

 ここはおれの部屋だ。それにカードは止められているし物乞いはしないから荷物が届くなんてことはない。


 それにおれはクソ野郎だが酒も薬もやらない。イカれるには賃労働だけで充分だがそれだってまだ狂えるほど働いてねえ。

 そうだとしたら目の前にある匣は現実だ。

 玄関で偉そうに鎮座しているその匣はガキの頃に教科書で見た抽象画とかだまし絵のようだ。

 クソが。

 とりあえず部屋に入らなきゃならねぇ。

 薄い木の板か硬質な段ボールの様に見える箱を足で突いた。



 重い。

 ぐっと力を込めて足で押してみたが動きそうにない。頑丈な上に重たいときた。

 匣には宛名も送り主も書いていない。そんな匣がここにあるのはどういう事だ?

 大家からの遅すぎるお年賀。

 おれを恨んでるやつからの嫌がらせ。

 それとも政府やビッグブラザーからの贈り物。これを着てアカの手先と闘う戦士になれ!

 馬鹿馬鹿しい。今どきのガキだってそんな筋書きじゃ喜ばない。


 とにかく匣を開けなきゃ話は始まらない。

 マンションの廊下に出ているなら放っておくがここはおれの部屋だ。

 少なくともおれがクソ家賃を払っている部屋だ。クソ家賃を払うのは心底ムカつくので地主は3代までて打ち切りにして欲しい。


 警察に通報することも考えた。

 だが部屋に変な匣がある、と不惑近い歳の男が通報したいか?

 おれが警察ならクソして寝ろと怒鳴って電話を切る。そうでなけりゃ警棒で張り倒して終わらせる。

 匣を開ける。その中に何が入っているかだ。金か?クスリか?第三次世界大戦の脚本でもいい。

 空じゃなけりゃなんだっていい。

 おれは部屋の鍵を使って上蓋を固定しているやたら分厚い布ガムテープを切り裂いた。


 匣の中には一糸まとわぬ女が詰まっていた。

 そしてその女は美しかった。

 皮膚はその下に砂糖や生クリームを塗りこめたように美しく滑らかだった。だがその皮膚はまるで氷のように、ひとを寄せつけない感じがした。


 クソだ。イカれてやがる。

 賃労働の所為だ。それとも孤独が煮詰まったからか?最後に女を抱いたのはいつだったか思い出せもしない。

 だが自分の細く軟弱な神経を後悔するには遅すぎた。今までおめおめと生きていた自分が悪い。

「おい」

 声をかけたが反応は無い。

 死体なら通報だ。

 生きていておれの言語を理解するなら服を着せて家に帰す。ダメならお前がここに住めばいい。おれは病院にでも行くだろう。


 静かに上下する大きな胸は呼吸をしている証拠だ。少なくとも死体ではない。それなら通報はナシだ。

「おい」

 もう一度声をかける。

 だが女は反応しない。聾か?

 肩を掴んで揺する。思ったよりも暖かい肌に気持ち悪さを感じる。

 よく出来た人形であって欲しいと言う願いは脆くも崩れた。

 人生はクソだ。


 おれは匣を跨いで家に入った。

 まずは煙草だ。おれがどんなにイカれてるとしても構わないが、あの匣はどうにかしなきゃならない。

 その中の女はどうする?

 毛布で巻いて表に出しておくか?

 だが見られたら通報じゃ済まない。考えただけでウンザリする夜になる。


 匣の中で眠っている女を見た。

 肩まである髪は夜を閉じ込めたようにどこまでも黒い。少なくとも洗う必要は感じない。

 左右対称の卵型に整った頭蓋骨。

 小さいがよく通った鼻筋。

 少し吊り上がった瞼はその下で眼鏡が左右に動いている。

 赤いと呼ぶには濃く、青や紫と呼ぶには明るい唇。

 その奥に並んでいる歯はきっと白いに違いない。ガキが並べた麻雀牌のようにガタガタなら笑ってやる。

 おれは女が目を覚まして口を開き、白い歯でおれを食い殺す妄想をする。女の歯ひ石鹸や返すコーヒーの泡みたいに丁寧に光を返す。

 その奥にある舌は燃えるように赤い。その赤い下でおれの濁った色をした血を舐めるんだ。


 煙草の煙が目に刺さりおれの妄想は中断させられる。

 そうだ。こいつは夢だ。もしくは賃労働で狂ったおれが見た妄想だ。

 それなら話が早い。

 おれは匣から女を担ぎ出す。

 女は重く温かい。

 こいつの血が白じゃなく赤いならそれでいい。この白い皮膚の下にある肉も毒々しい程に赤いだろう。上下する胸にある突起のように。



 女の肉が赤い事を確認したものの、結局目を開けない女はその日、おれを受け入れなかった。

 テーブルの上に横たわる女を見ながら薄く笑う。

 夢ならもう少しマシなのを見たい。



 おれはウンザリしていた。

 ウンザリしていない日を数えるのは無理だ。ウンザリしていない日は無い。ここまで生きてしまった事を後悔しているが死ぬには遅過ぎる。

 そいつはストローを噛む女だった。ウンザリするだろ?しないならおまえは狂っている。どうせおまえに足りてないのはセックスだ。ソープに行け。

 その女は残り少なくなったアイスコーヒーにガムシロップと植物性ミルクを全て投入してカサが増えたのを悦んでいた。


 おれは果てしなくウンザリする。

 先端を嚙み潰したストローで混ぜて薄茶色になった水はミルクの油脂が溶け切らずまだら模様になっている。

 まるでクソだ。

 女の膣でおれの精液と女の血がまだら模様になる光景が浮かび上がる。

 コイツの脳みそはどうなってるんだ?

 それともおれがどうかしてる?

 両方だ。世界はクソだしおれはイカれてる。得体の知れない女の肉に溺れて、このウンザリする状況を受け入れようとしている。


 女は日本語を解す。女はおれを受け入れる。おれは女を抱く。おれは日常を受け入れる。

 


 女の笑顔。おれの愛想笑い。

 顔面を引き攣らせる。おれは退屈のあまり酸欠気味になっていた。

 適当なお愛想を言って喫茶店を出る。埃まみれだが新鮮な空気を吸い込む。脳みそに酸素が行き渡る。

 おれの血管の中で女の肉が甦る。

 赤い肉だ。温かい肉だ。

 背の高いビルに隠れていた陽の光が目を貫く。クソだ。だがそれはおれの現実だ。


 どうと言う事はない夕陽が美しく見えた。






 その日のウンザリを目一杯に詰め込んだクソより酷い満員電車を目指す。

 賃労働のクソさ加減は大体が通勤にある。だが会社に住みたい訳じゃない。そのクソさ加減に見合った賃金を寄越せってだけの話だ。

 ゲボと大差ないウンザリのため息を吐きながら駅の改札を抜けてホームに降りる。

 ストローを噛む女もまだそこにいる。

 果てしないウンザリ。

 おれの愛想笑い。そうだ。おれはおれのルールブックを棄てた。この女の膣に精液ごと放り込んである。

 金太郎飴、または業務用ゆで卵の様にどこを切っても同じ模様の生活。

 毎夜同じように繰り返されるセックス。正常位、騎乗位、後背位、そして再び正常位。それで終わりだ。



 おれ嗤った意味に目の前の女は気づかずに訊く。

「あっちまで歩いていい?階段が近いから」

 あぁいいよ、構わない。

 電車の中を歩いたっていい。

 だが電車に乗る前にホームを歩くのも、目的地で電車を降りてからホーム歩いても変わらないん。

 ストローを噛む女の考える事はわからない。

 近所のコンビニに行く時はドン・キホーテで買ったキティちゃんのサンダルを履くし、スーパーでまとめ買いなんてした事がない。


 その女をモノリスと呼ぶべきか?

 ラブドールと呼ぶべきか?タルパ、妄想、気狂い。どれでもいいがおれは誰と何をしているんだ?

 あの匣は何だったんだ?

 孤独の詰まった匣と呼ぶべきか。


 ウンザリする。

 何かを定義したりしなきゃ何ひとつ喋れない自分に果てしなくムカつく。

 だが女はおれを殺したりしない。

 おれは掴まったつり革のべたつき加減を気にする余裕も無いくらいに疲れている事を実感した。

 足を引きずるように駅を抜けて家路に着く。

 街灯の間隔が近く眩しい。

 夜空は煮詰めた黒いシロップのようで何も見えない。

 まるで匣に閉じ込められた気分になる。


 みんなが嘲笑う東京の黒い空。

 それは黒い匣の天井だ。

 つまり東京と言うのはクソったれた箱庭だ。

 その箱庭に西から東までずっと並んでいる駅はどれも他所の県庁所在地駅より栄えている。

 それだけでも異常だって言うのに、何が狂っているかってそこに住んでるのは殆どが東京の外から来た人間だってことだ。


 それに東京に来て住んだ瞬間からその人は東京の人間だ。

 京都とは違う。何代も費やす必要が無い。

 

 生活と言うのはそこに根を張り、ぼちぼちとそれぞれの花を咲かせていくことだ。

 あとは枯れて死ぬ。次が待っているからな。

 肉体が死に、埋められたそれが土に還りまた花や木になる。

 その繰り返しを生活と呼ぶ。余所者に厳しい地域と言うのはそういう意識が高い。だが老人が死なないからな。

 仕方ない。

 親に死ねと言えるならそれが正解だ。いつまでも長生きしてんじゃねえ。


 その点で言うと東京は別に死ななくても埋められなくても良い。

 東京に住めば、それで東京と言う土地の人間だ。

 それは寛容さなのかいい加減さなのか、あるいは曖昧さだ。東京は定義されない。

 

 その東京と言う箱庭。

 その花壇の中で咲く花になれるかどうかだが、少なくともストローを噛む女は美しい花たりえないなと笑う。

 それを笑うおれだって同じだ。

 おれがその女の中に死んで埋まって花を咲かせることが出来ないのであれば、それはそういう事なんだろう。

 おれがどこかで死んで埋められて土に還り花や木になる事がないように、目の前の女がおれを受け入れないのであれば、おれがそこに埋没して女に還り腹を引き裂いて花や木を芽吹かせることが無いのなら、そして枯れて土に還りまた花や木とならないのであれば。


 

 ウンザリしている。

 おれは考えることをやめられない。おれはおれ自身を止めることができない。死ぬには遅すぎた。このまま狂って死ぬまで生き続けなきゃならない。

 その事実にウンザリする。


 

 おれはテーブルの上に置かれた女の手を取り指を齧る。

 濃縮還元された様な夕陽にも似た血が滴る。

 女は目を覚まさない。

 裂かれた肉と骨を奥歯で挟んで噛み締める。甘さと苦さが舌の上を這い回る。暖かい血が脳味噌に流れ込む様な錯覚を起こす。

 匣の中の女。美しく綺麗な女。

 おれはその女を噛む。

 少しずつ、少しずつ噛む。

 肉を食み骨を食み血を飲む。

 おれは匣の中にいた女の生活者となり得なかった。

 おれは女を食む。

 おれの体細胞が全て入れ替わるまでおれは女を食む。

 ゆっくりと、毎日少しずつ。

 やがて女はおれの中に埋まり、おれに還り、おれの心臓を切り裂いて花を咲かせる。

 そして花が枯れて再びおれに還り、また繰り返す。



 東京は不思議な匣庭だ。

 それにクソったれている。

 おれは女にウンザリしているし、それ以上におれ自身にウンザリしている。

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