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第11章。 『危険への一本道。』

神戸を離れた翔たちが向かったのは、滋賀・大津。

失踪した女性たちの行方を追う調査は、やがて湖国の街で不穏な気配とぶつかる。

観光地の顔をした坂本の裏路地。

曇天に沈む琵琶湖のほとり。

そして、霧の奥に潜む二つの影──死んだ少女の痕跡と、消滅したはずの教団の紋章。

さらに、水月会の若衆たちが彼らを取り囲み、調査は一瞬にして生存戦へと変わる。

頼れる後ろ盾はなく、あるのは各々の力と覚悟だけ。

彼らが掴んだのは確かな証拠二つ。

だが同時に、敵も二つ。

月輪教団と水月会──

霧に閉ざされた大津の街で、調査は狩りから逃走へ。

それは、危険へと続く一本道の、ただ最初の一歩に過ぎなかった──

天宮・翔(あまみや・しょう)

相沢・小百合(あいざわ・さゆり)

佐伯・健三(さえき・けんぞう)

谷口・健太郎(たにぐち・けんたろう)

中村・遥(なかむら・はるか)

佐伯・乃亜(さえき・のあ)

杉本・美咲(すぎもと・みさき)

月輪教団(がちりんきょうだん)

荒鷲会 (あらわしかい)

水月会(すいげつかい)

親分(おやぶん)

若衆(わかしゅう)

兄貴分(あにきぶん)

舎弟(しゃてい)


新開地・神戸。【天宮翔の視点】

2016年11月26日・午前9時。


神戸の朝はどこか違っていた。

ようやく雨が止み、空にはまだ雲が広がっていたものの、その隙間から灰色の光が差し込み、事務所の前の通りをぼんやりと照らしていた。

濡れたアスファルトには、昨日の出来事の名残がまだ滲んでいるように見えた。

黒いジャケットを整える。飾りもブランドもない、ごく普通のものだが──見せてはならない刺青を隠すには十分だった。

探偵らしくも、極道らしくもない。ただ実用的で、旅人のように人目を避けるための服装。

すでに小百合さんは支度を終えていた。

淡いグレーのコートに、薄手のマフラー。手袋とさりげなく調和し、彼女が纏う上品さを際立たせていた。

まるで観光客のようで、とても捜査官には見えない──今の俺たちには、それがちょうどよかった。

「どうしました、翔さん? この格好……そんなに目立ちますか?」

視線に気づいた小百合さんが、少し不安げに尋ねてくる。

「……え? いや、全然。むしろ……よく似合ってる」

気づけば返した言葉は答えというより、褒め言葉になっていた。

頬をわずかに染めた小百合さん。その空気を、乃亜がすかさず壊した。

「ねえ、翔兄ぃ。私の格好も採点してくれないの?」

わざとらしい女子高生らしい甘えた声で言う。明らかに小百合さんを挑発するつもりだ。

「乃亜も似合ってるよ。ただ……もう少し地味な方が良かったかもな。大津じゃ男の目を引くだろ」

小百合さんとは対照的に、乃亜には隠しようのない若さがあった。

ベージュのセーターに明るいブーツ。まるで修学旅行にでも行くような、浮き立った装い。

「ふーん? つまり、翔兄の目も引いちゃったってこと?」

わざと色っぽく言い返す乃亜。

「ふふ……合コンに行く女子高生みたいって意味じゃない?」

小百合さんが小さく笑いながら突っ込む。

「……はぁ? 少なくともアラサーみたいな格好じゃないけどね」

乃亜の言葉は柔らかいが、棘を含んでいた。

「……あ?」

火花が散りかけたその瞬間──事務所のドアが乱暴に開かれた。

入ってきたのはアスタロトだった。

いつもの黒いドレスではなく、俺が買ってやったモダンな服に身を包んでいる。

その姿は、どこか奇妙で……妙に現実味を帯びて見えた。

「どうしたの? 本気で私を振り切れると思ったの?」

唇に歪んだ笑みを浮かべるアスタロト。

俺は答えず、ただ思った──これを必要ないと言っていたのに、結局は袖を通しているのが、可笑しいと。

「じゃあ、出発しましょうか」

小百合さんが静かに促す。

「……ああ、もう準備はできてる」

ちょうど出発しようとしたその時、佐伯さんが事務所の入口に姿を現した。

いつもの厳しい表情だったが、その目に宿る光は、どこか気にかかるものがあった。

「翔くん……少し二人で話せるか?」

肩に手を置きながらそう言う。

「……はい、大丈夫です。小百合さん、乃亜、悪魔……車で待っててください」

そう答えて、俺は小百合さんに車の鍵を手渡した。

三人が事務所を出ると、佐伯さんは低い声で話し始めた。

「運が良かったな、翔くん……親分と話をつけた。今回は組からの後ろ盾がある」

「……そうですか」

安堵が胸をよぎったが、その支援が条件付きであることも分かっていた。

「勘違いするなよ。その後ろ盾は永遠じゃない。時間は刻一刻と迫っている。いずれ──遅かれ早かれ、お前自身が顔を出さなきゃならん」

いつもの、あの重々しい声。

「……だがな。個人的には、お前たちが独りじゃないと分かっただけで少し気が楽になった」

反論する理由はなかった。俺は静かに頷くだけだった。

二人で事務所を出ると、佐伯さんは乃亜に軽く挨拶をして自分の車に乗り込み、走り去っていった。

俺も車に乗り込む。ハンドルを握った瞬間、アスタロトが当然のように助手席に腰を下ろした。

後部座席には小百合さんと乃亜。

「おい、悪魔……なんでその席に座ってるんだ?」

「ふふふ……後ろの二人の美女がどっちが助手席かで揉めてたからね。面倒な争いを避けて、私が座ることにしたのさ」

いつもの皮肉を込めた口調。

「ただでさえ子どもっぽい見た目なのに、警官に止められたら面倒だぞ」

「そうそう。子どもは後ろに座るべきでしょ、翔兄ぃ」

乃亜がわざと小百合さんより先に口を挟む。

小百合さんは黙って俺をじっと見つめるだけだった。

「……ふぅ。まあ今回は前に座ってもらった方がいいだろう」

俺はため息をつきながら答えた。

緊張を長引かせないためにも、小百合さんと乃亜は後ろで並んで座っていた方がいい。

エンジンをかけ、車は阪神高速へ。

神戸が遠ざかっていく。新開地のネオン、パチンコ屋の看板──それらは高架の向こうに消えていった。

頭上には緑色の標識。

『大阪』『名神高速』の文字が、カタカナとローマ字で並んでいる。

やがて大阪が俺たちを呑み込んだ。

朝の交通は迷路のようで、幾重にも重なる高架、途切れなく並ぶコンクリートの柱。

両脇を大型トラックが唸りながら走り抜け、梅田の光る広告がビルの隙間から覗く。

その奥では、JRの電車が鉄橋を渡る音が響いていた。

まるで巨大な灰色の怪物──鉄と煙とクラクションでできた獣の腹の中に迷い込んだようだった。

少しずつ怪物は姿を消す。

高層ビルは低くなり、クレーンの影は田畑に混じり、黒い瓦屋根の家々が点在する。

空気は冷たくなり、湿った土の匂いを含んだ風がフロントガラスを叩いた。

遠くの丘にはまだ紅葉が残り、赤や金の葉が岩肌に貼りついたまま、熾火のように燃え尽きようとしていた。

しばらく誰も口を開かなかった。

エンジンの唸りとタイヤがアスファルトを叩く音だけが響く。

やがて、俺は口を開いた。

「さて……どうする? 計画はあるのか? それとも手当たり次第に町を歩き回るつもりか?」

小百合さんは落ち着いた声で、まるで前もって準備していたかのように答えた。

「昨日、谷口さんが残してくれた資料を詳しく確認しました。失踪した女性は十二人。大津の各地区で行方不明になっています。坂本で三人──その中には杉本美咲さんも含まれています。石山で三人、瀬田と錦織で二人ずつ。大津中心部で一人。そして山間部で人です」

彼女は一度言葉を切り、手袋を整えながら息を整えた。

「杉本さんは坂本で行われた文学祭に参加した後に姿を消しました。……そこで始めるのが妥当だと思います」

「ふむ……」

俺は頷いた。筋が通っている。

その時、後部座席から乃亜が身を乗り出してきた。

「でも、なんでその地区なの? まず中心部を調べた方がいいんじゃない? 人が多い方が情報も集まりやすいでしょ?」

「これは遊びじゃない、乃亜。遠足のつもりなら帰れ」

俺の言葉は鋭く、乃亜は唇を尖らせた。

「でもさ、誰かが自然に人と話さないとダメでしょ? 大人って時々怖がられるんだよ。それに失踪から十日以上経ってるんだし、現場に証拠なんて残ってると思う?」

その時、アスタロトが小さく笑った。

「ふふふ……ガキの言うことも一理あるわね。もっとも、あなたたちに社交を任せるなんて、谷口くんを待つのと同じくらい退屈だけど……で、その警官はどこ行ったの? 大阪で女子高生でも追いかけてるんじゃない?」

俺は鋭い視線を送ったが、アスタロトは肩をすくめ、面白がっているだけだった。

正直に言えば、乃亜の指摘は正しかった。

彼女は『レジデュアル・エコー』の力を持つ小百合さんや、俺の『クリミナル・イヤー』のことを知らない。

普通の人間にとっては、杉本さんが消えた場所を訪ねても意味がないように見える。

だからこそ、俺がきつく言ったことに罪悪感があった。

「なあ、乃亜……さっきの件だが……」

「乃亜さん。確かに中心部で情報を集めるのも理にかなっています。でも、その前に段階を踏んだ方がいい。証拠を押さえずに人に聞き込みしても時間を無駄にするでしょう」

小百合さんが柔らかく口を挟んだ。

その説明は誠実で、思いやりがあった。

初めて二人の間に張り詰めた空気が消えたように感じた。

「だからこそ、お前の出番が来るんだ。まさか遊びで連れてきたと思ってるのか?」

「どういう意味、翔兄? 正直、お父さんに頼まれたからだと思ってた」

「それもある。だが……お前の性格は情報を引き出すのに役立つ。俺たちがやれば一発で怪しまれる。だが、お前なら……」

「うーん……分かった。じゃあ精一杯やってみる」

乃亜は必死に冷静を装ったが、その表情には抑えきれない喜びがにじんでいた。

その後の道中は穏やかだった。

乃亜の他愛ないおしゃべり、アスタロトの皮肉、小百合さんの冷静な分析。

それらがときどき沈黙を破る程度で、車内は落ち着いた空気に包まれていた。

昼前、車は京都を高架で横切った。

右手には近代的なビルの合間から、古い寺の屋根がかすかに顔を覗かせる。

やがて滋賀に入り、景色が一気に開ける。

眼前に広がるのは琵琶湖。

巨大で、静止した灰色の水面は、空と同じ色をしていた。

水面には低い霧が漂い、ヘッドライトの反射を呑み込んでいた。

速度を落とす。視界は悪くなかったが、その靄は境界線を越えたような錯覚を与えた。

俺はハンドルを握りしめる。

道は真っ直ぐで、逃げ道はない。

──危険へと続く一本道だった。

***

坂本 ・大津。【相沢小百合の視点】

2016年11月26日・午前11時59分。


正午を告げる頃、緑色の標識に『大津出口』と書かれた看板を横切った。

窓の外には、晩秋の赤茶けた丘陵が鉛色の空の下で沈んだ色を見せ、遠くには琵琶湖が灰色の靄を吐き出すように広がっていた。

高速を降りた途端、空気は冷え込み、湿気がガラスにまとわりつく。まるでこれから訪れるものを暗示しているかのように。

「これが大津かぁ……もっと賑やかな場所だと思った」

後部座席で乃亜が窓に額を押し当てて呟いた。

翔さんはすぐには答えなかった。

ハンドルを握る彼の手の固さが、心の内を雄弁に語っていた。

「気を抜くな。街は穏やかに見えても、その裏に最悪を隠しているものだ」

助手席のアスタロトが足を組み替え、くすりと笑った。

「ふふふ……まるで詩人みたいね、翔くん。その言葉、俳句にして文学祭にでも出してみたら?」

乃亜はふんと鼻を鳴らしたが、私は黙って景色を観察していた。

どうにも落ち着かない気配が漂っていたのだ。

大津駅周辺の大通りには車の流れがあり、店も開いていて、人々は傘を畳んで腕に抱えて歩いている。

だが……声が抑えられているような、奇妙な沈黙が街に覆いかぶさっていた。

パチンコ店の光はどこか鈍く、そして角ごとに停まっている黒塗りのセダン。

中で煙草をふかす男たちの視線が、通りを無言で監視している。

ヤクザでなくとも、この土地に所有者がいるのは理解できた。

私たちは京阪の線路沿いに北上し、坂本比叡山口の近くへ。

道は狭くなり、黒瓦の伝統家屋と小さな町の神社、そして電線に絡まる歪んだ電柱が入り混じる。

湿った落ち葉の匂いが側溝から立ち上り、赤い鳥居がいくつも連なりながら日吉大社への道を示していた。

車はやがて灰色のコンクリート造りの集会所の前で止まった。

駅と比叡山へ続く参道の間にひっそり佇む建物。

色褪せた『文学祭』のポスターがまだ残っていた。

入口には安物のスーツを着た男が煙草をくゆらせていた。

私たちを無愛想に一瞥したが、翔さんが車を降りて無言で札を数枚渡すと、男は小さく頷き、最初から何も見なかったかのように脇へ退いた。

車を降り、翔さんの後について建物の中へ。

中は思った以上に空虚だった。

木の床は一歩ごとに軋み、背の高い窓からは鈍い光が差し込んでいる。

折り畳み机が壁際に積まれ、湿った紙と埃が混じった古い匂いが空気に残っていた。

「翔さん。谷口さんの情報によれば、ここが杉本美咲さんの最後の目撃場所です。何か痕跡があるはずです」

歩きながら私は口にした。

「ああ。だが慎重になれ。もしお前が倒れて病院に運ばれるようなことがあれば、一気に目立つことになる」

「大丈夫。少しずつ練習してきましたから……もう前より耐えられます」

私は迷いなく答えた。

「……何の話?」

乃亜が首をかしげ、戸惑った声を上げた。

「ふふふ……実はね、小百合ちゃんには特別な力があるのよ。物に触れることで、その過去を少し覗けるの」

質問に答えたのはアスタロトだった。

「ふーん、そうですか……捜査には便利な力だね」

乃亜が感心したように呟く。

「でしょ? それじゃ、乃亜ちゃんも何か特別な力を欲しい? 無料であげるわよ……ふふふ」

いつもの皮肉を込めた声でアスタロトが囁く。

「おい、悪魔……ふざけるな」

翔さんがすぐに遮った。アスタロトが本当に妙な取引を持ちかける前に。

「私はただ手を貸したいだけよ……ふふふ」

アスタロトはそう言いながら、まったく助ける気などないような笑みを浮かべていた。

二人が言い合っている間に、私は少し先へ進み、ホールの片隅に積まれた机の一つの前に立った。

手袋を片方外し、指先でその表面に触れる。

目を閉じた瞬間──

残響が押し寄せた。

十秒間。

声、笑い、本をめくる音。

小さな街の祭りとは思えないほど多くの人々で賑わう文学祭の光景。

そして、その群衆の中に彼女がいた。

淡い色のマフラーに、まとめた髪。亡くなった杉本美咲さんと同じ姿、同じ服装。

「……彼女だ」

思わず口から漏れた。

唇を噛む癖が決定的な証拠だった。

だが、彼女は一人ではなかった。

傍らには暗いジャケットを着た男が立ち、本を差し出していた。

彼女は微笑み、受け取り、丁寧に頭を下げる。

さらにその後方には、もう一人の影。群衆を離れ、じっと観察している。

──エコーが霧のように溶けて消えた。

目を開ける。心臓が早鐘のように打っていた。

「大丈夫か?」

翔さんが声をかけてくる。

「はい、問題ありません……彼女は確かにここにいました」

そう答えながら、私は会場の奥へと歩みを進めた。

裏口のドアには新しい痕があった。だが無理やり壊された跡はない。

そっと触れてみたが、得られたものは少なかった。

──群衆のざわめきと、季節特有の湿気の感触。

深く息を吐き、手を離す。

その時、足元の敷居に、雨に濡れてしわくちゃになったハンカチが落ちているのに気づいた。

私は慎重に拾い上げ、再び目を閉じる。

三度目のエコー──

十秒間。

同じ裏口。

杉本さんが自らの足で歩いている。隣にはフード付きのジャケットの男。

さらに背後には、長いコートを着たもう一人。市民のような、ごく普通の服装。暴力の気配はない。

ただ一人が、彼女の肘に軽く触れ、脇道へと導く。

外では透明な傘が霧の中で開いた。

その瞬間、彼女のハンカチが落ちた。彼女は気づかなかった。

──エコーは唐突に途切れた。

目を開ける。もう一度試そうとしたが……頭が揺れ、めまいが一気に押し寄せてきた。

「もう十分だ」

背後から聞こえた翔さんの声は、揺るぎないものだった。

「でも……まだ見られるかも……」

「だめだ、小百合さん。情報はもう足りている。他にも行く場所がある」

深く息を吐き、込み上げる悔しさを押し殺す。翔さんの言う通りだ。無理をすれば答えどころか、足を引っ張ることになる。

私はハンカチをビニール袋に収めた。

それでも、三度の『レジデュアル・エコー』を使っても倒れなかったのは大きな進歩だった。

かつてなら、一度で意識を失っていたのだから。

「このハンカチは持ち帰ります……おそらく杉本さんのものです」

「でも、何の役に立つの? 死因は首吊りだったんでしょ? だったら分析する意味ないじゃない」

乃亜が口を挟む。

「確かに死因には関係ない。でも、彼女があまりにも自然に、笑顔で歩いていたのが気になった……薬を使われていた可能性がある。調べれば分かるかもしれない」

私はそう答えながら、ハンカチを小さなビニール袋に丁寧に収めた。

「……なるほど。もし薬物の種類が分かれば、手掛かりを絞れる。この土地を仕切ってる連中との繋がりも見えてくるだろう」

今度は翔さんが応じた。

「分かっていることは一つ。杉本美咲さんは、確かにここにいた。そして……」

私は扉の方を振り返った。

「二人の男と一緒に出て行った。ヤクザではなさそうだった。普通の市民のような格好だった」

「服装は?」翔さんが重ねて問う。

「フード付きの中綿ジャケットと、黒いロングコート……特に目立つものじゃない」

アスタロトが口笛を鳴らし、皮肉っぽく笑った。

「ふふっ。ずいぶん凡庸ね。少なくともヤクザよりはセンスがあるみたいだけど?」

彼女以外、誰も笑わなかった。

建物を出ると、外の空気はさらに冷え、靄は濃くなっていた。

車に乗り込み、翔さんがエンジンをかける。

バックミラーを覗いた彼の目が細められる。

「……尾けられてる」

わずかに首を傾けて視線を追う。半ブロック先、黒いセダンがエンジンをかけたまま止まっていた。

中では二人の男が煙草をふかし、こちらを見ていないふりをしている。

だが翔さんは、追跡の気配を見抜く達人だった。

車内を包む沈黙は、外の霧よりも重くのしかかった。

──その時、私は悟った。

大津に調査員として入ったのではない。

獲物として足を踏み入れてしまったのだ、と。

***

中心部・大津。【天宮翔の視点】

2016年11月26日・午後2時。


坂本を離れた直後、小百合さんの携帯が鳴った。

彼女は落ち着いた声で応答したが、眉間に刻まれた皺が内容を物語っていた。

相手は谷口だった。

スピーカーモードにして、全員で耳を傾ける。

「谷口さん、何かあったんですか?」

『ああ、小百合さん。出てくれて助かった。短く言う──大津では気をつけろ。滋賀に行く予定が二日ほど遅れてしまった。だから、そっちで問題が起きてもすぐには助けられない。俺の伝手によれば、今この辺りの組織は少しピリピリしてるらしい。警戒して動け』

要するに──俺たちは孤立無援ということだ。

小百合さんが通話を切ると、車内の緊張は一気に濃くなった。

「……ったく。援護なしでアウェー戦か」

俺はミラーを直しながら呟いた。

誰も返さない。ただエンジンの唸りだけが沈黙を埋める。

車は狭い路地へと入っていき、やがて大津の中心部へ近づいた。

大津は神戸と大差はない。だが、どこか窮屈で息苦しい空気が漂っていた。

消えかけた光で誤魔化すパチンコ屋、油の匂いを漂わせる赤提灯の居酒屋、コンビニ前に積まれた自転車の群れ。

確かに雑踏はある。だが、その下に奇妙な静寂が潜んでいた。

──俺には分かる。この沈黙は監視されている時のものだ。

角ごとに黒いセダンが停まり、エンジンをかけたまま煙草をくゆらす男たち。

言葉はいらない。彼らが水月会の若衆であることは、その佇まいだけで分かる。

車を路地裏の居酒屋近くに停め、歩いて移動することにした。

同じ車で何度も周回すれば、それこそ格好の的になる。

前を歩くのは俺と乃亜。

少し後ろに小百合さんとアスタロト。

途中、路地の水たまりに何かが沈んでいるのが目に入った。

黒いカード。雨に濡れて端が歪んでいる。

拾い上げて指先で確かめた瞬間、見覚えのある印が目に飛び込んできた。

──中之島の事件、そして六甲山で見たあの印。

月と五芒星。月輪教団の紋章だ。

汚れにまみれても、その形は鮮明だった。

俺はそれを小百合さんだけに見せた。彼女は無言で頷いた。

「……最悪だな」

つまり──あの教団はまだ生きている。

俺が教祖を殺したはずなのに。

しかも、杉本美咲の遺体に刻まれた印も、狂信者の戯言などではなく……教団の直接的な関与を示していたのだ。

「翔さん、このカードに私の力を使いましょうか?」

小百合さんが口を開いた。

「いや……今はやめておけ。もう三度も力を使ったんだ。これ以上は危険すぎる」

「でも、それが一番早い方法でしょ……?」

「そうだな。そして同時に、敵地の真ん中で死ぬ切符にもなる」

俺は吐き捨てるように答えた。

小百合さんは黙ったままカードを受け取り、ビニール袋にしまった。

「体調が戻ったら調べてくれ──このカードが、大津での教団の隠れ家に繋がる切符になるかもしれない」

俺たちは車内で決めた通りの作戦を続けた。

乃亜に一枚のビラを渡す。そこに写っていたのは十九歳の失踪者、中村遥。

「お前の友達ってことにしろ。お前の年なら怪しまれない」

「で、でも……色々聞かれたら?」

不安そうな声。

「質問には質問で返せ。無理なら笑ってごまかして離れろ──どんな小さな情報でも今は貴重だ」

小百合さんが鋭い視線を寄こしたが、他に手はなかった。

俺も小百合さんも観光客には見えないし、彼女の力を再び使わせるわけにもいかない。

乃亜は数歩前に出て、通りすがりの人々に声をかけ始めた。

「すみません……友達を探してるんです。この子、最近ここで見かけませんでしたか?」

写真を差し出す姿は、まるで本物の同級生を探しているかのようだった。

「ふふふ……あの小娘、なかなかやるじゃない」

アスタロトが面白そうに笑った。

だが反応は冷たかった。

人々は視線を逸らし、首を横に振り、足早に去っていく。

そして俺は気づいた。彼らの目が時折、角に立つ黒服の男たちへと向かうのを。

──つまり、恐れているのだ。口を割れるはずがない。

いくつもの試みが空振りに終わり、これ以上は危険だと判断した時──奴らが現れた。

水月会の二人が居酒屋の前から歩み出て、乃亜の行く手を塞いだ。

一人目は口元に煙草をぶら下げ、薄笑いを浮かべて言った。

「お嬢ちゃん……ここらじゃ誰もそんなもん見てねぇよ。その写真、しまっとけ。余計なことすると厄介になるぜ」

もう一人はさらに露骨だった。

「この街は遊び場じゃねぇ。家に帰りな、痛い目に遭う前にな」

乃亜が一歩下がる。肩が震えていた。

その瞬間にはもう俺は動いていた。

彼女と奴らの間に割って入り、低く言い放つ。

「彼女は何もしてない。文句があるなら……俺に言え」

煙草の男が睨み返す。

もう一人は舌打ちし、素早く乃亜の手から紙を奪おうとした。

──失敗だ。

俺はその手首を掴み、ひねり上げる。

「ッ……!」

短い呻き声と共に煙草が地面に落ちた。

力を込めず、軽く押しやっただけで十分だった。

もう一人が前に出る。だが、俺の目で止めた。

兄貴分や舎弟の世界で身につける眼。

一瞬で、奴は俺がそっち側の人間だと理解した。名前までは知らなくても。

手首を押さえる男が吐き捨てる。

「へっ……歩き方は兄貴分だが、代紋は見えねぇな。気をつけろよ、大津じゃ試したがる奴が山ほどいる」

俺は答えず、ポケットから煙草を取り出し火をつけた。

紫煙が返答代わりだった。

奴らは背を向けて去っていった。

だが解放されたわけじゃない。

道の向かいには、別の若衆二人が立ち尽くし、無言でこちらを見ていた。

小百合さんがすぐ横に寄り、小声で囁く。

「……囲まれてる」

やがて別の若衆の小集団が合流し、俺たちはじわじわと路地裏に追い込まれていった。

腰の銃に手をかける──だが、数が多すぎる。俺一人ではどうにもならない。

その時、アスタロトが一歩前に出た。

「……寄生虫ども。よくも私のペットに触れようとしたわね」

幼い声が低く歪み、地の底から響くような重低音となって路地を震わせた。

水月会の若衆たちは凍りついたように動けなくなった。

声を失い、目を見開き、ただ彼女の気配に圧倒されていた。

……無理もない。日常的に彼女と過ごす俺ですら背筋が冷たくなるほどだったのだから。

「ふふふ……やっぱり。度胸のある奴は一人もいない。都合がいいわね……でも、このまま帰すわけにもいかないわ」

単色の金と赤の目に瞳が妖しく輝く。

アスタロトの視線が若衆の心を貫いた瞬間、彼らの表情は虚ろになり、まるで操り人形のように立ち尽くした。

彼女はくるりと振り返り、いつもの皮肉な笑みを浮かべた。

「もう大丈夫よ。あの馬鹿どもは記憶が曖昧になってる。酒場で酔っ払い同士が喧嘩した程度に思い込むでしょう。でも……他の連中は別ね」

肩をすくめ、鼻で笑う。

俺たちはすぐに車に戻り、エンジンをかけた。

大津に一分でも長居するのは危険すぎる。

バックミラーに映る街並みは、霧の中に溶けていった。

だが、それは解放ではないと俺は分かっていた。

「おい、悪魔……さっきのは記憶を消したのか?」

「いいえ、そんなつまらないことはしないわ。少し現実を歪めただけ……ふふふ」

「……つまり、坂本で見た連中も、さっき去った奴らも俺たちを覚えてる」

「正解。時間稼ぎをしただけ。あのままじゃ包囲されて終わりだったでしょう?」

「……ちっ。じゃあ次に大津に戻る時は、平和な散歩にはならないな」

後部座席から小百合さんが口を挟む。

「それでも二つの手掛かりは得られました……明日には分析できます」

確かに。

だが簡単ではなかった。小百合さんに必要なのは研究用の設備だ。そしてあのハンカチの解析、そしてカードのエコー。

それに──最大の問題は水月会だ。

この街で自由に動くのは、もはや不可能に近い。

ハンドルを握り直す。

……乃亜は危うく獲物にされるところだった。

佐伯さんの言葉が脳裏に浮かぶ。

──俺たちは大津で調査員じゃない。ただの侵入者だ。

敵は一つではない。

琵琶湖の殺人鬼と月輪教団。

そして新たに、水月会の若衆が牙を剥いた。

煙草の煙を吸い込み、吐き出す。

視界を曇らせながら呟いた。

二つの証拠を掴んだ。

だが代償は……二つの敵に狙われること。

月輪教団は生きていた。

そして水月会は、すでに俺たちの匂いを嗅ぎつけていた。

──危険への一本道。

その最初の一歩を、俺たちは踏み出してしまったのだ。

❊❊❊❊

次回:『アスタロトの遊戯──進むための一手。』


最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました!

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

よければ評価していただけると、今後の励みになります!

これからもどうぞよろしくお願いします!

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