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第0章 『答えの代償。』

天宮・翔(あまみや・しょう)  

相沢・小百合(あいざわさゆり) 

天宮・美代子(あまみやみよこ)  

県庁前駅(けんちょうまええき)


兵庫県・神戸。三宮・歓楽街。

2016年10月23日・午後10時30分。


雨は、まるですべてに疲れたかのように、ただ静かに降り続けていた。土砂降りでもなければ、優しい霧雨でもない。じわじわと染み込み、気づけば全身を濡らしている――そんな執念深い雨だった。コートの隙間から入り込み、街をひび割れた鏡のように変えていく。

俺は行き先もなく、ただ薄暗い裏路地を歩いていた。人目を避ける気もない、むしろ招かれざる空気を醸し出すような通りだ。カラオケやバーのネオンが濡れたアスファルトにぼんやりと映り、世界全体が酩酊しているように見えた。足元には水たまりができ、その中に映る俺の姿は歪んでいた。

履き古した革のブーツが、濡れた地面に音を立てて沈んでいく。黒いロングコートの裾は湿り気を帯び、肩にずっしりと重くのしかかる。立てた襟も冷たい風には無力だった。雑に巻いた黒いマフラー、その下にはネクタイのないシャツ、そして厚手のズボン。すべてが闇に溶け込むような黒一色。俺は、もう長い間、光の方へ出る資格なんて考えたこともなかった。

濡れた前髪が額に張り付き、冷たい雫が肌を伝う。傘は差していない。俺は傘が嫌いだ。むしろ、この雨が好きだ。この冷たさを感じている間だけは、まだ生きていると思える。

毎晩が同じ繰り返しだ。無意味な一日がまた終わる。返事のない電話、意味のない名前、どこへもつながらない情報。そしてまた、母を殺した犯人の手がかりは何一つ見つからない。

裏社会のつてを使っても、まるで壁にぶつかっているかのようだった。

時々思う。もしかしたら、母は、俺が知るよりずっと前に死んでいたのかもしれない。俺が家に戻らないことを決めた、その時に。

守ったつもりだったのに――皮肉なもんだ。

俺が守ったのは、きっと俺自身だったのかもしれない。

いや、待ち続けたこと、それこそが――母を殺したのかもしれない。

俺はため息をついた。

思考を止めるのもまた、生き延びる術の一つだ。考えすぎるのは、ゆっくりと死んでいくのと同じだから。

信号も見ずに通りを横切り、湿気で染み込んだ扉を押して入った。

そこは、二軒の閉まった店の間にひっそりと存在する、小さなバーだった。

中に入ると、空気が変わった。

今ではもう見かけなくなったような、古びたバー。

温かな照明、木の壁、そして湿気と古いタバコの匂いが混ざり合っていた。

隅にあるラジオからは、静かにジャズが流れている。

客は少ない。カウンターでうつ伏せに寝ている男、奥の席で小声で喧嘩しているカップル、そして無言で仕事を続ける、汚れたエプロンをつけた店主。

右側にはトイレへと続く細い通路があり、その先にもいくつかテーブルが並んでいたが、誰がいたかは覚えていない。

気にも留めなかったのかもしれない。

俺はカウンターの端に座り、椅子がキィと抗議するような音を立てた。

「いつもの……日本酒を」

店主は何も言わずにうなずき、無駄な動きもなく酒を注いだ。

手元に置かれた杯は、どこか歪んだ陶器だった。まるで俺自身のように。

そのまま口に運び、薬のように流し込んだ。

昨日と同じ味。母の死を知ったあの夜と、何一つ変わらない味だった。

杯を木のカウンターにそっと置き、しばらくじっと見つめる。

中に、何か別のものが映る気がして――結局は、歪んだ自分の姿だけだった。

《神戸は変わらねぇな……俺も、何も変わってねぇ》

だけど、その夜は――何かが違う気がした。

ほんの僅かに、何かが変わる、そんな予感があった。

日本酒の苦味が、少しずつ意識を麻痺させていく。

バーのざわめきは、雨に曇ったガラス越しにゆっくりと揺れ、頭上のネオンがかすかに点滅するたびに、煙草の煙がその光を歪ませていた。

俺はカウンターの隅、最も忘れ去られた席から、背後の鏡に映る自分を見ていた。

濡れた髪、黒い服、その奥の目つき。

――もう何も期待していない、見すぎた男の目。

そのときだった。

椅子を乱暴に引く音、鈍い衝撃。

反射的に振り返ると、先ほど気にも留めなかった奥のテーブルで、何かが起きていた。

シャツのボタンを開けた二人の酔っ払いが、一人の女を囲んでいた。

彼女のベージュのコートは乱れ、手提げはトイレの前の床に投げ出されている。

「なあ、そんなに堅くすんなって。こんな店に女一人で来るなんて、何を期待してるんだよ……?」

その声には、下劣な笑いが混じっていた。

彼女は抵抗していた。

決して大げさに騒ぐわけではなく、ただ静かに、しかし毅然と。

歯を食いしばりながら、怒りを秘めたその瞳は、それでも震えていた。

『俺はヒーローなんかじゃねぇ。むしろ、その逆だ……だけどな、見過ごせねぇこともある』

俺はグラスをカウンターに置いた。乾いた木の音が、思ったよりも大きく響いた。

迷いも焦りもなく、俺は歩き出した。まるで、自分が何をしようとしているのか分かっていないかのように。

一人の男が振り向き、俺の姿を見て鼻で笑った。

「何か用かよ、お前?」

俺は何も言わなかった。ただ、黙って立っていた。

その瞬間、かつて染み付いた全ての感覚が自然と蘇る。

足の重心、肩の角度、間合いの取り方。

俺の左手が先に動いた。最も近いやつの手首を掴み、乾いた音を立てて下にひねる。

反応する前に、そいつは膝をついた。

もう一人が立ち上がろうとしたが、その一瞬の迷いが命取りだった。

俺は前腕でそいつの胸を押しつけるように、静かに、だが確実にテーブルに押し付けた。

力など必要ない。必要なのは――正確さ。支配。

「……消えろ」

声を張る必要はなかった。

それだけで十分だった。

「チッ、覚えてろよ……」と一人が呟いたが、もう一人が慌ててそいつの腕を引っ張り、バーを出ていった。

店内の視線が集まっていたが、誰一人、何も言わなかった。

いつものことだ。誰も、何も、しない。

彼女はまだ立っていた。

震えてはいたが、その瞳はまっすぐに俺を見つめていた。誇りと脆さ――相反するものが同居しているような、不思議な目だった。

「……大丈夫か?」

そんなこと、俺は普段聞かない。けれど、その時は自然と口から出ていた。

彼女は静かにうなずいた。

そして、俺は気づいたら、空いた椅子に腰を下ろしていた。

理由はわからない。

ただ、彼女の表情に、何かが引っかかった。

「……君はこんなバーに来るタイプには見えないな」

そう言いながら、軽く頷いて店主に合図を送る。

俺の酒をもう一杯。そして彼女にはウイスキー。

「あなたもね。誰かを助けるために動くような人には見えなかった」

声はまだ少し震えていたが、芯のある響きだった。

灯りが彼女の顔を照らすその瞬間、ようやく気づいた。

彼女の髪は黒を基調に、控えめな青みがかった束が所々に混ざっていた。雨に濡れて少し湿っており、無造作に整えられていたが、どこか上品さを漂わせていた。灰青色の瞳は鋭くも深く、どこか冷静な観察者のようでもあった。

その髪色は、彼女の白く透き通るような肌と見事に対照をなしていた。

ベージュのコートの下には、バーガンディ色のセーターと黒のパンツ。

全てが、この場所に似つかわしくない気品を漂わせていた。

「……相沢小百合です」

「天宮翔だ……」

沈黙があった。だが、不快ではなかった。

「元は警察の鑑識……法医学分析官でした。だけど、『優しくしないと、大きな事件は担当させない』――そう言われたんです」

彼女はウイスキーのグラスを指で回しながら、静かに語った。

それ以上、言葉はいらなかった。

俺は全てを理解した。

「……で、あなたは?こういう場所が似合うようには見えないけど、何を探しているの?」

彼女がそう聞いてきた時、俺はゆっくりとシャツのボタンを外した。

そして、胸元にある刺青の一部を見せた。

かつての証――ヤクザの印。

「……何かを探してる。あるいは、誰かを。俺も……あまり綺麗な世界にいたわけじゃねぇ…だけど、飲み込まれる前に抜け出したんだ」

「それで……何を探してるの?」

彼女は、俺の刺青を見てもまったく動じなかった。

「母親を殺した奴だ」

俺の口から漏れたその言葉には、躊躇も遠慮もなかった。酒のせいか、それとも彼女の目のせいか――

小百合さんは視線を落とした。言葉を探すように口を少し開けたが、何も言わなかった。

「……」

「どんなふうに亡くなったか……聞いてもいい?」

その問いに、思わず驚いて彼女を見つめた。

「あっ、ごめん…ちょっと唐突すぎたかも。つい職業柄で……」

もう何を話してもいい気がしていた。むしろ、元鑑識官である彼女の視点が、何かの手がかりになるかもしれない。

「……いや、構わない。どうせ、母の事件はこの街でも結構知られてたと思うし」

「そうなの?どの事件?」

「天宮美代子の件だ。死体の腹部に奇妙な痕が残されていた、あの事件……覚えてるか?」

彼女の表情が明らかに変わった。しかし何も言わず、グラスを一口傾けて、再び目線を落とした。

沈黙が数分続いた。ようやく彼女が何か言いかけた、その時だった。

隣の席から鈍い音が響いた。酔っ払いがトイレに向かう途中でつまずいたらしい。場違いにおかしな光景だったが、緊張を少しだけ緩めてくれた。

小百合さんは腕時計を確認し、眉をひそめた。

「……もう行かないと。終電を逃しちゃうわ」

彼女はゆっくりと席を立ち上がる。声にはまだ震えが残っていた。

結局、さっき言いかけたことは聞けずじまいだった。

「送るよ」

気がつけばそう言っていた。ごく自然なことだった。あのまま、一人で帰らせるわけにはいかなかった。

雨は小降りになっていたが、空気にはまだ湿気がこもっていた。濡れたアスファルトの輝きが居酒屋のネオンを映し出し、街のざわめきは遠くに感じられた。まるで時間の流れが、いつもよりもゆっくりと進んでいるかのようだった。

俺たちはバーを出て、近くにある県庁前駅へと向かって歩き始めた。

このあたりは昔から知っている場所だった。だが、その夜はどこか違って見えた。ショーウィンドウはすでに閉まり、街灯は温かな光を落として、長く細い影を路上に描いていた。湿った土の匂いと、古びた木造建築の香りが混ざり合い、現代のビルの隙間にしぶとく残る過去の記憶を呼び起こす。

小百合さんは黙ったままだった。コートの前で手を組み、視線を落として歩いていた。俺も言葉を発しなかった。ときに、最も深い会話は沈黙の中から始まる。

「…お母さんの犯人を探してるって、言ってたわよね?」

彼女は突然そう口にした。俺の方を見ずに。

「ああ」

俺は短く答えた。迷いはなかった。

「本当は言うべきじゃないの。プロとして、やってはいけないこと。でも……あの事件、私が担当していたの」

俺は足を止めた。彼女も同時に止まる。

「……なんだって?」

「あなたのお母さんの事件。私が担当したの。検視官として。現場の写真も、遺体の状態も、全部覚えてる。お腹のあの痕……何もかも、意味が分からなかった。証拠もなくて、手がかりもなし……昇進した直後で、最初に任された事件だったのよ」

「それで、どうなったんだ?」

「上からの圧力があった。『強盗未遂による死亡事故』として処理するようにって。でも私は分かってた。あの痕は、偶然じゃない。……ごめんね、言い方が悪いけど、まるで儀式のようだった。だけど証拠がなかった。遺体には犯人の指紋も何も残っていなかった。もっと調べたかった。でもその後、私はクビにされたの……本当に、ごめんなさい」

彼女はそう言って、深く頭を下げた。その声はかすかに震えていた。

その姿を見て、俺は初めて彼女をただの震える女としても、仕事を失った検査官としても見ていなかった。ただ、罪を背負ったひとりの人間として見た。

「……あんたも背負ってるんだな。その罪を。いいんだ。気にするな。あんたは、できる限りのことをした」

彼女は小さく頷いた。彼女なりに、正義を追い求めているのだと分かった。

「ごめん……もう、調べることもできなくて……」

その言葉は、ほとんど聞き取れないほどの小さな声だった。

「少なくとも、誰かが彼女のことを覚えてくれていたんだ……」

俺は、誰に言うでもなく、ただ呟いた。

いくた通りの古びた紙店の近く、同名の神社の数歩手前。細い路地に差しかかるところで、俺たちは足を止めた。

その時間帯には、壊れかけの蛍光灯がチカチカと瞬いているだけだった。世界のすべてが、遠くのどこかへ消えていったような気がした。

「たとえ魂を差し出してでも……犯人を見つけ出して、母さんの仇を討てるなら…」

俺はそう呟いた。

そのときの俺は、まだ気づいていなかった。

あの一言が、見えない境界線を越える合図だったことに。

湿気を含んだ空気がまだ残る中、舗装された路面は街灯のオレンジの光を受け、鏡のように輝いていた。

俺たちは黙ったまま歩いていた。小百合さんは少し前を歩いていた。まるで、さっきの会話の余韻から逃れようとしているようだった。

駅までもうすぐ――そう思ったときだった。

「……今の、聞こえたか?」

耳に届いたのは、くすくすと笑うような、細く、かすかな声だった。

俺は立ち止まり、左手の路地を見た。

小百合さんも立ち止まり、内ポケットにそっと手を入れる。

そして、そいつは現れた。

まるで闇そのものから吐き出されたように、ゆっくりと。

少女だった。

十歳か、十一歳くらいに見えた。ありえないほど真っ直ぐな銀髪が、肩に沿って静かに揺れている。白すぎる肌は、街灯の光を受けて仄かに光っているようにも見えた。

黒いレースのついたワンピース、膝までの白いソックス、そしてエナメルの靴。まるでヴィクトリア時代の人形のような装いだった。

手には閉じたままの黒いゴシック傘。だが、それはもはや傘というより、不気味な王笏のようだった。

だが、一番恐ろしかったのは、その瞳だった。

片方は深紅、もう片方は金色――。

そして、彼女の微笑みは、決して子供のものではなかった。

あれは、すべてを知っている者の笑みだ。すべてを見てきた者の笑みだ。

「ふふ……ねぇ、お兄さん。『魂を捧げる』って言ったの、あなたよね?」

そう言って、少女は、首を傾けながら、まるで歌うように呟いた。

息が詰まった。

「……お前は、誰だ?」

そう問いかけながらも、もう骨の奥で分かっていた気がする。

「わたし?アスタロトって呼んでくれていいわ。ふむふむ……願い事、ちゃんと聞いたよ。なかなか強い願いだったけど、叶えるのはとっても簡単だったの」

アスタロトは、ひび割れた芸術品でも眺めるかのように、首をかしげて無邪気に微笑んだ。

小百合さんは一歩前に出て、俺の前に立ちはだかった。

「……何が目的よ?」

「目的?何も欲しくなんかないよ。ただ……『正当な取引』をしに来ただけ。力と引き換えに、たいして価値のないものを差し出してもらうの」

「たいして価値のないもの……?」

「そう、あなたたちの魂…」

まるでお菓子でも交換するかのような、軽い口調だった。

「どんな力だ?」俺は、小百合さんが止めるより先に訊いてしまっていた。

アスタロトは楽しそうに笑った。その目が妖しく輝き、路地裏の闇がわずかにねじれたように見えた。

「翔くんには……『クリミナル・イヤー【犯罪者の耳】』を。周囲の嘘、矛盾、心に隠した本音……それらを音として感じ取れる耳をあげるわ。静寂の中に潜む囁き……とても便利でしょ?」

そして、彼女は小百合さんへと向き直った。

「小百合ちゃんには『レジデュアル・エコー【残響の記憶】』を。素手で物に触れることで、その物が最後に感じた10秒間の感覚を読み取れる力よ。元鑑識官の君にはぴったりでしょ?」

「……いらない。そんな小細工、頼んでない」

小百合さんはキッと睨みつけながら、はっきりと拒絶した。

アスタロトは残念そうに肩をすくめた。

「そっか〜。でも、もう遅いの」

「……は?」

「契約は、すでに成立済み。翔くんが心の底から『魂を差し出す』と願ったその瞬間に……そして、小百合ちゃんは何も言わずに受け入れた。それで、十分」

「嘘でしょ……」

小百合さんが俺を振り返った。怒りをこらえた目が俺を責めていた。

「……何したのよ?」

「俺は……ただ……ただ『魂を捧げてでも犯人を見つけたい』って……言っただけだ。だけど、まだ何も受け取ってないぞ。望みが叶ってもいない。どうやって魂を奪うっていうんだ?」

「ふふふ……安心して、翔くん。あげた能力だけで十分に犯人を見つけられるわ。それに、経済力と身の安全も保証してあげる。だから、たっぷり私を楽しませてね?」

「楽しませる?……それに、どうして彼女まで巻き込むんだ。魂を差し出したのは俺だけだろ」

俺はそう言って、隣の小百合さんを指差した。

「ん〜それね……退屈だったから、もっと面白くしようと思ったの。ただそれだけよ。二人はお互いの力がなければ、どんな事件も解けないようになってるの。別々に行動しても、無駄よ?」

「おい……それって願いでも何でもない。ただの詐欺師じゃないか…」

苛立ちを隠せず、俺は睨みながら言い返した。

「はぁ……大人って残酷ね。無力な少女にそんな口を利くなんて。ちゃんと有用な能力をあげたのに、まだ文句を言うの?お母さんの事件も、その力で解決できるはずよ? 全部、自分でやらないと意味ないでしょ?」

アスタロトは皮肉たっぷりの笑みを浮かべながら言った。

「つまり……犯人を見つければ、それで終わりってこと?」

小百合さんが話に割り込む。

「それがね〜残念だけど、違うの。私はずっと思ってたの、人間の悪意がどうやって育つのか、近くで観察してみたいって。だからあなたたちにその役をやってもらうの。ふふっ、楽しいでしょ?」

アスタロトの口調はまるで、雨の日の退屈しのぎにおままごとをしているようだった。

「どういう意味だよ、それ……」

「小百合ちゃん、頭いいのに、ちょっと鈍いのね。言ってるでしょ、これからあなたたちは私のために事件を解決するのよ。私が飽きるまでね〜。まあ、気が向いたらヒントくらいはあげるかも?」

「ふざけるな……警察でも探偵でもない俺たちに、どうやってそんなことを……」

俺の声が低く響く。

「問題ないわよ。探偵事務所でも開けばいいじゃない。必要な資金も人脈も、私がなんとかする。ね?元ヤクザと無職の元鑑識官、世界中で難事件を解決する最強タッグ……最高に面白そうでしょ?」

まるで子供の遊びかのように、アスタロトは笑っていた。

外見こそ少女だが、中身は古の悪魔——そのギャップが、余計に不気味さを際立たせる。

『……もう何も失うものがない人間にとって、魂なんて取るに足らない』

母の仇を討てるなら、魂でも命でも構わない。

だが、小百合さんのことだけが気がかりだった。彼女は、こんなふざけた契約に巻き込まれる理由なんてなかったのに——。

「そうそう、言い忘れてたわ」

アスタロトがくすくすと笑いながら言った。

「事件を一つ解決するたびに、次の事件を探すまでの『猶予期間』を30日間あげる。私って優しいでしょ?感謝してね〜」

「……もしその30日を過ぎたら?」

小百合さんが静かに聞き返した。

「死ぬのよ。そしてあなたたちの魂は私のもの。シンプルでしょ?ずっと一緒にいられるのよ、永遠に……ふふ、ただし、私が飽きなければね」

「……その飽きたら解放するって、本当なの?」

小百合さんがなおも信じきれない様子で尋ねる。

「さぁ?気になるなら、自分で確かめてみて。ね?私の可愛い道化たち……」

そう言ってアスタロトの姿は闇の中に溶けて消えた。

再び静寂が戻る。今度は、より重く、より深く。

俺は自分の手のひらを見つめた。何も変わっていないように見える。ただの手。ただの皮膚。ただの指。

だけど……何かが、内側でねじれ始めていた。

「……すまない。全部、俺のせいだ。お前まで巻き込んでしまって……」

俺は頭を下げる。

「……へぇ。意外と礼儀正しいのね、ヤクザのくせに」

小百合さんは軽く笑って、息を吐いた。

「まあ、私にも責任はあるわ。あんな話を持ち出した私が悪い。プロとして沈黙すべきだったのに……」

その冷静さに、俺は少し驚いた。

怒鳴られると思っていた。泣かれるかもしれないと覚悟していた。でも彼女は、ただ静かに前を見ていた。

「さて……どうする?相棒さん」

その一言に、俺の中の迷いが少しだけ晴れた気がした。

あの静かな瞳に背中を押されるように、俺は小さく頷いた。

「これからは……俺たち、探偵になるしかないな。よろしく、相棒」

ちょうどそのとき、駅の時計がカチリと音を立て、午前0時を告げた。

こうして、俺たちの暗くて矛盾だらけの冒険が始まったのだった。





最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました!

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

よければ評価していただけると、今後の励みになります!

これからもどうぞよろしくお願いします!

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― 新着の感想 ―
Xの企画からです。 街の雰囲気の描写にとても惹かれました! どこか薄暗く冷たい人間社会に暮らす主人公の翔と小百合さん、そして底抜けに明るい悪魔のアスタロトの対比が魅力的です! 能力の発現のシーンにも惹…
XでのRT企画のご参加、ありがとうございます。 全体として、とても才能を感じる作品です。このプロローグを読んだ後、次に何が起こるのか非常に楽しみになりました。キャラクターの掛け合いや、事件の謎、そして…
イイ雰囲気の描写ですね。 ハードボイルド大好きです(>ω<)
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