リュシアを無視し続けたらどうなるか
あれから、私は笑わなくなった。
心の奥が、何かに蝕まれていくようだった。
否応なく思い出すのは、あの日の光景。
ぐしゃり、と湿った音がして。
人の頭部が潰れた断末魔が、耳に焼き付いて。
肉片が飛び、私の頬を赤く染めた瞬間。
彼女──リュシアが、まるで自分が血を被ったかのように取り乱した。
「ごめんなさい……ノエル、ごめんなさい……! こんなつもりじゃなかったの……!」
罪悪感など一滴も含まれていないはずの目が、
その時だけは本当に、壊れそうなほど悲しみに染まっていた。
──私は、震えた。
商人を殺したからではない。
私のために「優しさ」のつもりで殺したという、その認識。
そして、私が嫌がったのは「殺したこと」ではなく「血がかかったこと」だと、彼女が本気で思っていたこと。
彼女の中では、それが真実だったのだ。
ああ、この人は……本当に、何もかも違う。
だから私は、決めた。
壊される前に、自分を守るために。
感情を、捨てるしかなかった。
朝が来ても、私は部屋から出なかった。
メイドとしての役目を放棄した。
部屋にこもり、食事の支度も、掃除も、何ひとつしなかった。
薄い布団の中で、ひとり、呼吸を潜める。
もしかしたら、これで見捨ててくれるかもしれない。
あの人はきっと、完璧なメイドに惹かれたのだ。
だから私は、メイドをやめる。
役割を降りる。それで、関係を断ち切れるかもしれない。
けれど──
コツ、コツ、と軽い音が廊下を渡ってくる。
扉の前で、足音が止まった。
「ノエル……?」
その声を聞いた瞬間、心が凍る。
私の名前を呼ぶ声は、優しすぎて、柔らかすぎて、
逃げ場をなくすほどに甘かった。
「入っても……いい?」
何の返事もしていないのに、扉はそっと、開かれた。
視線を布団の奥から覗かせると、リュシアの姿があった。
いつものように完璧な美しさ。
真紅のドレスの裾は夜の海のように波打ち、黒髪には真珠の髪飾り。
けれど、その手には──小さな木盆。
紅茶の香り。切り分けられた果物。冷たい水差し。
「……熱、ある? 顔が……少し赤い気がするわ」
そっと私の額に、氷のように冷たい指が触れる。
その瞬間、私は布団の奥で身を固くした。
なぜ……なぜ、怒らない?
どうして、仕事を放棄したというのに──優しくされている?
わからない。
怖い。
何もかもが反転している。
「食べられそう……? 苦しくない?」
彼女の声は囁くように穏やかで、
私のことしか、見ていなかった。
「ノエルが……頑張りすぎてたの、私、わかってたのに……」
小さく、俯いて、彼女は言った。
「ごめんね、ちゃんと気づいてあげられなくて……もう、無理しなくていいから。何もできなくていい。私の隣にいてくれるだけで、私は……嬉しいの」
それが本心だと、わかってしまうから、もっと怖い。
彼女の愛は、まるで沼だ。
足を踏み入れた瞬間、抜け出せない。
拒んでも、逃げても、優しさという甘い泥で、すべてを包んでしまう。
私は頷くことも、首を振ることもできず、ただじっと目を伏せた。
すると彼女はそっと、トレーの上の果物を一切れ手に取って──
「……口、開けて?」
甘く、甘く、舌に乗せられた果肉は、花の蜜のようだった。
拒絶も、反抗も、すべてが無意味に思えるほどに、
その優しさは、静かに、深く、私を殺しにかかっていた。