生贄の商人
その日、リュシアはひとりの人間を連れてきた。
醜く、太った男。
粗末な身なりと擦れた声、そしてどこかで嗅いだことのある獣臭。
「……え……?」
私は思わず呟いていた。
その顔を、忘れるはずがなかった。
孤児だった私を浚い、檻の中に閉じ込め、奴隷市に流したあの男だ。
どうしてここに?
誰にも言っていない。
リュシアには、一言も口にしたことなどない。
なのに。
「探してきたの、ノエルのために」
優しく、微笑みながら、彼女は言った。
ぞくり、と背筋に冷たいものが走る。
知っている。
この人は、私の心の奥底にある「憎しみ」を知っている。
私が蓋をして、見て見ぬふりをしてきた黒い感情を。
「ノエルが……この人に、何をされてきたか。私は、知ってるの」
どうやって?なぜ?どうしてそんなことを?
彼女は男の肩を押し、跪かせる。
男は震え、涎を垂らして命乞いを始めた。
「助けてくれ」「間違いだった」と、嘘のような懺悔を繰り返す。
「復讐、してもいいのよ。ナイフでも、火でも、なんでも」
ナイフが差し出された。
美しい銀製の柄に、宝石の装飾がなされたそれは、明らかに「殺すための道具」ではなく、「贈り物」のようだった。
だが──私は、首を横に振った。
「……いりません。もう、終わったことですから」
リュシアは、ひどく残念そうに目を伏せた。
そして、次の瞬間だった。
ぐしゃり。
まるで紙を握り潰すように、男の頭部が潰れた。
脳漿と血が弾け飛び、肉の破裂音が部屋にこだまする。
……血が、私の頬に、跳ねた。
私は咄嗟に顔を拭うこともできず、ただ震えていた。
恐怖ではない。
その行動に、何のためらいもなかったリュシアの“目”に、震えた。
「──ノエル……!」
彼女は慌てて近づき、私の顔を覗き込む。
真っ赤な指先で、私の頬をそっとなぞる。
「……ごめんなさい。血が……ごめんね、私……こんなつもりじゃ……っ」
悲鳴のように、許しを乞うてきた。
罪悪感はない。
殺したことにも、苦しませたことにも。
けれど、この血が“私に触れたこと”には、底なしの後悔と悲しみを覚えている。
──この人の価値観は、やっぱりどこかおかしい。
その愛はまっすぐすぎて、狂っている。
彼女は、私の顔をそっと拭いながら、こう囁いた。
「ノエルが笑ってくれないと……私、壊れてしまいそうなの」
その微笑みが、誰よりも優しくて、誰よりも恐ろしかった。