優しさの檻
私は、その夜、逃げようとした。
どうしようもなく怖かった。
彼女の笑顔が怖かった。
私の名を呼ぶ声が怖かった。
彼女が本気で私を求めていることが、何より怖かった。
魔姫リュシア。
何千、何万を虐殺し、街ひとつを骨の海に変えた女。
けれど、私には優しかった。
それが、何より、逃げ出したくなるほど怖かった。
けれど――私は簡単に捕らえられた。
逃げる足を、風の刃がすくい、背後から黒き翼が追いすがる。
そして、何より恐ろしかったのは、彼女が笑ってすらいなかったこと。
「ノエル……ごめんなさい。怖がらせてしまったの……私よね」
その声に怒りはなかった。
憎しみも、軽蔑も、なかった。
ただ、悲しみと、心からの謝罪だけがあった。
「もっと……優しくするから。お願い、私を嫌いにならないでちょうだい」
その場で私は崩れ落ちた。
逃げる気力も、拒絶する力も、私にはもう残っていなかった。
だから私は、壊れる前に、試すことにした。
──見捨ててもらうために。
私はメイドの仕事を放棄した。
朝になっても布団にくるまり、顔すら出さなかった。
掃除も、食事の用意も、何一つしなかった。
そうすれば彼女も、諦めてくれるかもしれない。
「私のノエルじゃない」と言って、どこかへ行ってくれるかもしれない。
……なのに。
扉は、そっと、優しく開かれた。
「ノエル……? 起きてる?」
リュシアが、いた。
いつもの美しいドレス。
けれどその手には、盆とタオルと水差し。
「熱、あるかしら?顔、赤く見えるけど……」
近づいてきて、冷たい手が私の額に触れた。
心臓が跳ねる。怖くて、苦しくて、だけどもう叫べない。
「水、飲める……? 果物、剥いてきたわ……」
差し出された器には、小さく切られた甘い果実。
口に含むと、驚くほど優しく、優しく喉を滑り落ちた。
彼女は私を責めなかった。
怠惰も、拒絶も、無視も、何一つ咎めなかった。
彼女は、微笑んで言った。
「あなたが傍にいてくれる、それだけで、私は幸せなの」
……そう言って、そっと私の髪を撫でた。
──私の作戦は、失敗だった。
私はただ、もっと甘やかされてしまっただけだった。
彼女の愛は、罰よりも残酷で、優しさという檻でできている。