彼女は何を捧げるか
神殿の奥深く、誰も立ち入ることを許されぬ聖域。
レーネは一人、純白の祭壇に膝をついていた。
求めるは、ただ一つ。
ノエルを救う力を。
今の自分では届かない。
あの姫、リュシアを止めるには、世界すら揺るがす力が要る。
故に、レーネは「人の身」を棄てる覚悟を持ってここに来た。
神殿の中央に立つ女神像を見上げ、目を閉じる。
静かに、祈りを始める。
一秒で一週間分の祈りを捧げる。
肉体が軋み、精神が擦り切れても、祈りを止めない。
ただひたすらに祈る。
そして、十年分の祈りを積み上げたその時。
天から、声が降りた。
──何を、求める
「彼女を……ノエルを救う力を」
──何を、捧げる
「私の記憶を」
──足りぬ
「私の自我を」
──足りぬ
「私が本来持ち得た未来を」
──足りぬ
「私の命を」
──足りぬ
差し出せるものは、もう何もないはずだった。
レーネは俯き、己の存在の軽さに打ちひしがれる。
僧侶としての人生——それは、人を癒し、救い、手を差し伸べる道だった。
初めて癒したのは、膝を怪我をした少女だった。
大事故で死にかけていた老人を助けた。
家族を殺された、瀕死の戦士を癒した。
貴族の馬車に跳ねられ、首が折れた男を最後まで癒そうとした。
自殺しようとした人を癒し「どうして死なせてくれないの」と言われた。
両手を失って生かされた女は「死んだほうがマシだった」と泣いた。
それでも挫けなかったのは、僧侶としての誇りがあるからだ。
譲れないものがあるからた。
それを取り除けば、きっと私は私ではなくなる。
それが僧侶としての覚悟だ。
私には、もうそれしか残っていなかった。
それならば。
祈りの問いが、最後の選択を迫る。
──何を、捧げる
頭の奥で警鐘が鳴る。
これを差し出せば、私は僧侶ではなくなる。
それどころか人ですらなくなる。
鬼畜へとなり下がる。
しかし、それでも。
「私は——」
声が震えながらも、確かに告げる。
「私が今まで癒してきた者たちの命を、捧げます」
瞬間、空気が反転する。
世界が、神の理に触れる音を立てた。
彼女が癒し、延命し、救った全ての“命の余白”が一斉に神殿に集まり始める。
それは星の光のように瞬き、神の領域に達するエネルギーと化す。
天が開かれた。
女神が降りてくる。
「願いは果たそう。だがそれが終われば、お前は咎人となる」
「この先、お前は永遠に罪に苦しむだろう」
——構わない。
レーネの瞳に、涙はなかった。
そこにはただ一つ、ノエルを救うという揺るがぬ願いと、神をも動かす執念が燃えていた。