そして私は壊れた
「私は彼女を傷つけるなと命じたわよね」
その声が響いた瞬間、空気が凍った。
ワイバーンの咆哮も、魔族の罵声も止んだ。
生き物の音が一切消えた。
声の主は、空にいた。
魔族たちの頭上、さらにその上――
雲の裂け目から差し込む紅の月光を背に、漆黒のドレスを纏った少女が舞い降りてくる。
魔王と化した姫――リュシア。
かつては愛を語り、微笑み、手を差し伸べてくれたはずの彼女。
だが、今の彼女は違った。
その背に広がるのは六枚の羽。
腕は二対、四本へと変化し、左右の手にそれぞれ異なる形の大鎌を握っていた。
禍々しく、死を孕む魔力が周囲の大気を軋ませる。
リュシアは一言も発せず、ただ鎌をわずかに傾けた。
その瞬間、空気が爆ぜた。
黒い魔力が鎌から奔流のように溢れ出し、魔族たちを包み込む。
声もなく、ワイバーンたちは干からびた葉のように地に落ちた。
魔族たちは膝をつき、痙攣し、断末魔を上げる間もなく体から魔力を吸われて崩れ落ちる。
骨と皮だけになった彼らは、地に転がる塵へと変わった。
私は、ただその光景を見ていた。
殺戮ではない。
それは、愛情の発露だった。
「ノエルを傷つけた者」への、報い。
リュシアがゆっくりと舞い降り、私の前に膝をついた。
その目に、確かにあったのは、心配。
怒りや憎しみではない。純粋な、優しさだった。
「……大丈夫? 痛かったでしょう、こんなに擦り切れて……」
傷をなぞる指先が、震えている。
髪を優しく撫でる手が、少し濡れていた。
けれど私は、安堵できなかった。
その目の奥にあるものは、もはや「人間の感情」ではなかったから。
悪い予感がした。
──とても、悪い予感が。
「安心してちょうだい。ちょうど癒しの力を持ってる奴がいるから」
「その身体をすり潰せば、どんな傷でも治る霊薬が作れるの」
最初、意味がわからなかった。
けれど、理解した瞬間、世界が崩れ落ちた。
「やめて」
かすれた声がした。
振り返ると、地面に倒れていたレーネが、こちらを見ていた。
何度も何度も傷を負い、それでも助けに来てくれた彼女。
血に濡れた顔が、ふっと笑った。
「……ノエル、無事で……よかった……」
その笑顔のまま、彼女の首は宙を舞った。
赤黒い閃光。
リュシアの鎌が、誰よりも静かに、誰よりも早く振るわれていた。
抵抗の暇もなく、レーネの首が身体から切り離された。
血が、空中に放物線を描く。
その美しい軌道が、私の胸に突き刺さる。
───海が、見たいです
あの夜、焚き火を前に、彼女がぽつりと漏らした言葉。
その程度の、ささやかな夢すら、叶えてあげられなかった。
守ってあげたいと誓ったのに。
逃がすために自分を犠牲にしたのに。
それでも、彼女は戻ってきて、立ち向かって、死んだ。
私は、声を失った。
涙も、出なかった。
ただ、震える手で、彼女の首を抱き寄せることしか、できなかった。
リュシアが、柔らかく笑った。
「ほら、これで治せるわね」
その笑顔が、私の心を粉々に壊した。