戦利品
2人は逃げていた。
魔族の進軍を避け、勇者の探知を恐れ、西へ西へと歩みを進めていた。
「海が、見たいです」
ある夜、火を焚いていた時、レーネがぽつりと呟いた。
その声は、子どもの夢のように、どこか遠くを見ていた。
「そうですね……私も、見てみたい」
私は微笑んで応えた。
奴隷だった頃、一度も海を見たことがない。
貝なんて、残飯に混じった破片を拾い食いした程度。
「氷結貝」がどれほど貴重なものかを知ったのも、メイドとして厨房を出入りしてからだった。
海。それは私にとって、遠く、幻想のような場所だった。
このまま、西へ西へと進めば、見れるだろうか。
だが、本当に──遠すぎた。
空が裂けるような音がした。
ワイバーンの咆哮。
翼を鳴らし、鋭く裂けた風が木々を吹き飛ばす。
上空に、影。
魔王軍の騎乗部隊が、こちらを見下ろしていた。
「いたぞ!」
「メイドだ!見つけたぞ!」
「逃がすな、追え!」
目が合った瞬間、理解した。
逃げ切れない。
草むらを抜け、岩場を駆け、川のそばまで来た。
「逃げて、レーネ!」
「え、なに──」
私の手が、彼女の肩を押す。
躊躇などなかった。反射的に突き飛ばしていた。
彼女の体がふわりと宙を舞い、川の流れへと落ちていく。
ばしゃんという音がして、水しぶきが上がった。
──これでいい。
魔族の目は、私に向いている。
レーネだけは助かる。
「──っ!」
背中に熱が走る。
ワイバーンの牙が私を掠めたのだ。
爪のような牙先が衣服を裂き、肌を抉る。
そのまま体が地面を滑り、石にぶつかって止まった。
痛みはある。だが意識は残っている。
生きている。まだ。
「やったな……!」
ワイバーンの背から飛び降りた魔族の兵が、私の髪を掴んだ。
長く伸ばした黒髪が引き上げられ、無理矢理立たされた。
足が浮く。首が痛む。視界がぐらついた。
「これで我が種族は、新たな四天王に選ばれるだろうな」
「感謝するぞ、人間。貴様のおかげでな」
笑っている。嘲るように。
私は……なにもできなかった。
ただ、震えるしかなかった。
この程度で済んで良かった。
それが、今の私の限界だった。
レーネが逃げられたなら、それでいい。
私は、そういう役割なのだと、納得するしかなかった。