逃避行
森を抜け、ふたりは川の浅瀬を渡ろうとしていた。
水の中を進むと足跡が残りにくいと聞いたことがある。
勇者がどこまで追ってくるか分からない今、慎重に進むしかなかった。
私は先を急ぐあまり、思わず足を速める。
すると、後ろから声が届いた。
「ま、待って……! おいてかないでっ!」
振り返ると、レーネが川の浅瀬に足を取られていた。
体の平衡を失い、水の中で転びかけていた彼女を、
私は咄嗟に駆け戻って抱きかかえるように支える。
「……ありがとう」
微笑むレーネは、どこか嬉しそうだった。
その顔があまりにも無垢で、私は胸が痛くなった。
「手を、握りましょうか」
「うん」
差し出された手を、私はしっかりと握った。
どんなに疲れても、どんなに不安でも、
この手だけは、絶対に離さない。
川を越え、街道に出た。
道の先には、集落らしき小さな村の影が見える。
避難するべきか。休息を取るべきか。
悩む間に――レーネがぽつりと呟いた。
「……血の匂い」
言われて私も、鼻を利かせた。
そして気づく。
空に昇る煙──白ではなく、濃い、焦げ茶のような黒。
それは煮炊きの煙ではない。
誰かが焼かれ、燃やされ、壊された煙だった。
「まさか……」
私の言葉を待たず、レーネが走り出す。
「待って、レーネ!」
慌てて後を追う。
草をかき分け、丘を越え、村を見下ろす位置に出たとき──
私たちはその惨状を目にした。
村は、魔族によって襲撃されていた。
地面に転がる遺体。
逃げる人々を追う、ゴブリン、コボルト、オーク。
血と炎と悲鳴が、風に乗って届く。
「……軍事行動、けどそなんなはず」
私は思わず呟いた。
この付近は共和国の主要街道。
魔族の進軍はまだ及んでいないはずだった。
「どうして……」
そのとき、レーネの目が鋭く細められた。
「……助けないと」
村の広場。背中を斬られ、のたうつ住人が一人。
彼女の目は、その人だけを見ていた。
手を合わせ、足を一歩、前に出そうとしていた。
「……待って、だめ!」
私はレーネの腕を掴んだ。
かつての彼女なら、僧侶としての力で、あの程度の魔族を払うことはできただろう。
けれど今の彼女は、恐怖で自我を揺らし、魔法の詠唱すらまともにできるか怪しい。
私たちが出れば、見つかる。
見つかれば終わりだ。
そう言いかけたその時──耳に異様な声が飛び込んできた。
「いたか」
「いない」
「ころしたか」
「ころしてない」
「生きたまま」
「生かしたまま」
低く、湿ったような声が、奇妙なリズムで繰り返される。
「傷はつけるな」
「汚くするな」
「魔王様の命令だ」
「新たな魔王様の命令だ」
ごぶっ、ごぶっと喉を鳴らすような声で、複数の魔族が口をそろえていた。
「探せ探せ、メイドを探せ」
「見つけろ見つけろ、メイドを見つけろ」
心臓が止まりそうになった。
私たちが、ただ巻き込まれただけの「通りすがり」ではないことが、これではっきりした。
明確な、指名手配。
魔族が、私を探している。
何故。なぜ。誰が。
「……新たな魔王様って、誰……?」
口の中が乾く。
私の手の中で、レーネの掌が震えていた。
私は彼女の手を握り直す。強く、強く。
いずれにせよ、ここにいてはだめだ。
見つかる前に、再び逃げ出さなければならない。
けれど、今の魔族の動きからするに──もう、時間はあまり残されていない。
森は静かだった。
けれど、追手の足音は、確実に、そこへ近づいていた。