蜜月
外は静かだった。
勇者が飛び立ってから、丸一日が経過している。
空は澄み渡り、街の喧騒も、鳥の声も遠く、あまりに穏やかだった。
──それが、かえって不気味だった。
私は、部屋の隅で毛布を肩まで被った僧侶レーネを見下ろしていた。
彼女は未だ震えを止めず、時折、呼吸すら忘れたように小さく固まっている。
「……貴女だけでも、逃げた方がいいのではないでしょうか」
私の声に、レーネの肩がぴくりと揺れた。
「……いやです」
すぐに返ってきたのは、かすれた声だった。
「……私を、置いていかないでください……みすてないで……」
彼女は、あの日から変わってしまった。
勇者の剣が、彼女に裁きの声を下したあの瞬間から。
自分の死を確信し、そのまま地面に崩れ落ち、声を漏らして泣いたその時から。
彼女は、何か大切なものを置き去りにしてしまったのだ。
「……怖かったですよね」
私は、彼女の髪に手を伸ばす。
優しく、何度も、ゆっくりと撫でてあげる。
「あがとう、すき」
レーネは寝ぼけるように、そう呟く。
毛布の奥から、鼻をすする音が聞こえた。
撫で続けるたびに、彼女の身体から少しずつ緊張が解けていく。
私の手を、子どものように両手で包み込むその仕草は、何かを求める赤子のようで。
──そのときだった。
レーネが、私の指を、口に含んだ。
「……え……?」
ぬるりとした感触が、指の腹を包む。
唇が吸いつき、舌が絡み、じゅるり、と音を立てる。
チュウ、チュウ……と、まるで赤ん坊が母の胸から乳を吸うように。
私は驚きに身を固くしたが──
やがてその姿が、何かに飢えている子供のように見えた。
安心を求めるように。
命綱のように、必死に、何かを埋めようとしている。
その姿に、胸の奥がじんと熱くなる。
母性──と言っていいのかわからない。
でも、守らなければと思った。
こんなに脆くて、誰かに依存しなければ壊れてしまいそうな命を、今度こそ。
──だから、決めた。
私はレーネの頭にそっとキスを落とす。
彼女はまだ指を吸っていたが、目はうっすらと潤んで、私を見つめていた。
「……レーネさん」
「……うん」
「一緒に、逃げましょう」
「……え?」
「……ふたりで。どこか遠く、勇者の手が届かないところへ」
その言葉に、彼女の瞳が静かに揺れた。
そして、小さく、か細く──けれど確かな声で、言った。
「……うん」
こうして、ふたりの脱出計画が始まった。
窓の外は、まだ穏やかだった。
だがこの静けさが、いつ破られるかわからない。
何時、勇者セラフィナが戻ってくるかわからないのだ。
時間はない。
私はレーネの手を取り、少しだけ強く握った。
今度は、絶対に見捨てないと誓いながら。