普通の出来事
振り返ると、僧侶はしゃがみ込んでいた。
両腕で自分の肩を抱くように丸まって、目は見開かれ、声にならない震えを喉の奥に詰まらせている。
床には、じわりと滲んだ温かい液体が広がっていた。
──仕方ない。
死を目前にして、身体が言うことを聞かなくなるのは、当然のことだ。
「……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
僧侶は壊れたかのように、ただ謝り続けていた。
私は黙ってその腕を引く。
反抗されるかと思ったが、彼女はされるがままだった。
小刻みに震える体はあまりにも軽く、抵抗する力もない。
風呂場に連れていき、服を脱がせて湯に浸からせる。
失禁の跡が染み込んだ衣服を洗い、肌にこびりついた汚れを一つ一つ拭ってあげる。
湯気が立ちこめる中、僧侶はずっと泣いていた。
鼻をすする音、喉の震え、肩を震わせる力なき呼吸。
その姿を見ながら、私は不思議と──ホッとしていた。
魔姫リュシアも、勇者セラフィナも、我々とは何かが違っていた。
どこか逸脱していて、心の深い部分で理解し合える気がしなかった。
でも、この僧侶の涙は、あまりにも「普通」だった。
怖くて、震えて、泣きじゃくって、謝って。
そんな彼女の反応が、何よりも人間らしくて。
私はその人間らしさに慰められていた。
──ああ、私も、まだ人間だったんだ。
風呂から上がると、清潔な衣服を渡し、髪を拭いてあげる。
僧侶はやっと泣き止み、しばらくして、弱々しい声で言った。
「……ありがとう」
私は微笑んだ。
「どういたしまして」
それは、あまりにも当たり前で、健全な、会話。
この家に来てから、初めて「人間同士」のやりとりをした気がした。
「……お名前は?」
僧侶は少し放心したように黙り、小さな声で答えた。
「……レーネ。レーネ・ユスフィーナ」
「レーネさん。素敵な名前ですね」
ふたりで部屋に戻り、食事をとる。
勇者が作り置いていった料理を、私たちは黙々と食べた。
勇者のいない食卓は、静かだった。
誰も笑っていなかったけれど、代わりに誰も死ななかった。
夜。
床に敷いた布団に、二人で並んで横になる。
レーネの身体はまだ震えていた。
目を閉じても、まぶたの裏には血の記憶が残っているのだろう。
私はそっと、その肩に毛布をかけ、言葉にはしなかったが心の中で誓った。
──せめて、この子だけは、守らなきゃ。
もう誰も、目の前で死なせない。
レーネのように泣ける人が、壊されないように。
私にできることがあるなら、なんでもやろう。
遠くで風が鳴っていた。
けれど、その夜、勇者は帰ってこなかった。
そして私は、願っていた。
──どうか、しばらくは戻らないで。