勇者には遠くへ行ってもらいたい
「何か食べたいものある?」
勇者セラフィナが笑顔でそう問いかけてきた時、私はすぐに答えていた。
「……氷結貝が、食べたいです」
一切の逡巡もなかった。
その名を告げた瞬間、口の中に、かつて味わったあの冷たい旨味が蘇ったような気さえした。
──氷結貝。
北方の海の、流氷に抱かれた海底でしか取れない幻の貝。
流通には魔法による特殊冷却と国家規模の取引が必要な代物。
今の季節、しかもここからでは到底手に入らない。
だからこそ、口にした。
セラフィナには、遠くへ行ってほしかった。
少しでも長く、この家から離れてほしかった。
「うん! 氷結貝だね。わかった、行ってくる」
そう言うと、彼女は何の疑問も抱かず飛翔魔法を発動。
変幻の剣が鳥の姿をとり、彼女の背中に翼を形作る。
玄関を開け、空に向かって高く舞い上がると、声だけが風に乗って届いた。
「待っててね、ノエル。必ず見つけてくるから」
玄関が閉まった。
音が止んだ。
──室内に残されたのは、私と、僧侶の彼女だけだった。
僧侶はすぐに詰め寄ってきた。
「……貴女、何なんですか! 一体どういう関係なんですかセラフィナ様と!」
「……私には、何も分かりません」
「セラフィナ様は、誰に対しても分け隔てなく優しい人だったんですよ。それが今は、仲間を、友を──次々に……!」
彼女の声は、怒りと恐怖がないまぜになっていた。
何も知らない。私も、知らない。
けれど、責められて当然だと感じてしまう。
彼女の言葉が正しいのだ。
私にはその「理由」がわからないからこそ、怖いのだ。
「 セラフィナ様は“攫われた大切な人がいる”って言ってたけど」
「まさかそれが──貴女? 貴女なんですか!? 魔族に連れ去られてたのが貴女……?」
申し訳ない思いでいっぱいなる。
「わかりません、私……本当に……」
私の声は掠れていた。
その時、視界の端で、光が走った。
「──喧嘩してるの?」
鳥だった。
風を切る音と共に、窓の外から滑空してきた鳥。
鋭く煌くその羽根と眼光。
見覚えがある。
勇者の剣が変形した姿だ。
鳥の嘴から、セラフィナの声が聞こえてきた。
「……まあ、悪いのは僧侶だよね」
静かに、淡々と、裁定のように。
鳥の姿が変形し始める。
飛び出るのは、剣か、槍か、矢か。
──殺される。
まただ。私のせいで、誰かが死ぬ。
魔法使いの時のように。
ただ言葉を口にしただけで、身体に刃を差し込まれたあの瞬間。
考えるより先に身体が動いていた。
僧侶の前に飛び出し、両手を広げる。
「……彼女は、悪くありません!」
我ながら震える声だった。
その声が届くかどうか、分からなかった。
けれど、勇者の剣は空中で変形を留め、部屋の隅へと滑り落ちた。
刃は床に突き刺さり、動きを止める。
沈黙が落ちた。
私はただ、息を吐いた。
背後で僧侶の肩が震えているのがわかる。
私も同じだった。震えていた。恐怖で、熱で。
「……そっか。ノエルがそう言うなら、今回は許してあげるね」
微笑むような声が、どこか遠くから響いた。
「でも、次はないよ」
その声の意味を考えることすら、怖くて、できなかった。