06 魔塔にいく
あれから二週間が経った。
お茶会での騒動から、あっという間に時間が過ぎたように感じる。
お父様は先方と王家に婚約解消についての書状を出して、近いうちに認められるだろうと仰っていた。
──魔塔って、どんなところなのかしら。
今日はエリオット殿下と交わした約束の日。
私はエントランスで待機しながら、ふと自分の手のひらを見つめた。
今日から、私は魔塔で暮らすことになる。
今まで、受け入れるがままに「空気のように」生きてきた私。
でも、それじゃ駄目だと思った。
婚約解消となったことで、一つの人生が終わった。これからは——自分の道を選んで進むんだ。
「リリアナ、殿下がいらしたようだ」
「はい。わかりました」
私は背筋を伸ばして、彼の来訪を待った。
「こんにちは~! ボク、時間ぴったりだったでしょ?」
満面の笑みを浮かべたエリオット殿下が、軽やかに馬車から降りてきた。
王族でありながら、この無邪気さ。その自由さが魔塔の主たるゆえんなのかもしれない。
あのあとレオン兄様に話を聞いたら、究極の防護結界の性能を試すためにレオン兄様に何十回も攻撃をさせたり、宙に浮く甲冑の開発をするといって特殊な甲冑を着せられ、天井に貼り付く結果になってしまったことなど……なんだか大変だったことがわかった。
魔塔って、なんだかすごいところなのかも、と少し尻込みしてしまったわ。うん。
「さあ行こうか、リリアナ。あの馬車に乗って乗って!」
エリオット殿下に誘われ、私は少し緊張しながら、家族を振り返る。
「リリアナ、何かあったらすぐに知らせるんだぞ」
「身体に気をつけるのですよ」
「エリオット殿下、リリアナには変な実験をしないでくださいね!」
家族がそれぞれ念を押すように言う。
「では、行って参ります」
私は笑顔で頷き、そっと馬車へ足を踏み入れた。
「失礼いたします……あっ」
馬車の扉が開かれると、中には別の人物が座っていた。フードを深く被り、顔の半分以上が隠れている。
「ああ、気にしないで~。彼は護衛だよ。セドって呼んでね!」
「護衛ですか……セドさん?」
「一応ね、王族のボクがいるから警備も兼ねてるんだけど、まあ、彼は寡黙なタイプだから無理に話しかけなくてもいいよ~」
フードの下から覗く瞳は、紫色。
それは少し冷たい光を湛えていたが、どこか理知的な雰囲気を感じた。
「……よろしく頼む」
低く落ち着いた声が響く。
私は少し戸惑いながらも、「よろしくお願いします」と返し、それからすっと差し出された手を取って、馬車へと乗り込んだ。
セドさんの隣にエリオット殿下が座り、私はその対面へ腰掛ける。
緊張していると、エリオット殿下が突然ポケットをゴソゴソと漁り始めた。
「さてさて! 旅のお供に、お菓子を用意しましたよ~!」
そう言って取り出したのは——色とりどりのマカロンが入った箱だった。
……それにしても、ポケットに入るサイズではないような気がするわ。
「このマカロン。魔力回復効果もあるんだよ~!」
エリオット殿下は嬉しそうに箱を開け、私とセドさんの前に差し出した。
「さあ、遠慮なく食べて食べて!」
目の前に並べられた色とりどりのマカロン。
その中から、私はひときわ可愛らしいピンク色のものをそっと手に取った。
口元に近づけると、甘酸っぱい果実の香りがそっと鼻をくすぐった。
そっとかじると、外側の殻がパリッと儚く砕け、中からしっとりとした生地がふわりと舌に溶けた。
――美味しい。
瞬間、甘くて爽やかなラズベリーの風味がふわりと広がる。
優しい酸味が舌をくすぐり、その後に追いかけるように、間に挟まれたクリームの滑らかで濃厚な甘さが溶けていく。噛むごとに、なんとも言えない幸せな味わいが広がっていく。
気づけば、私はそっと目を閉じていた。
――こんなに美味しいものを、私は今まで知らなかったなんて……!
そういえば、お茶会や夜会に並ぶ色とりどりの菓子や料理を味わう余裕なんてなかった気がする。
「……とても、美味しいです」
「でしょ~? ボクのお気に入りなんだ!」
私が言うと、エリオット殿下はニコニコしながら頷いた。
ちらりとセドさんの方を見ると、彼も黙ってマカロンを手に取っていた。
「……」
無言のまま、一口。
そして、一瞬だけ驚いたような気配を見せたが、すぐに表情を戻した。
「……悪くない」
静かにそう呟く。
私は思わずくすっと笑ってしまった。
この方、案外甘いものが好きなのかもしれない。
「ほらほら、リリアナ。いくらでも食べてよ。まだあるよ~」
エリオット殿下からの甘い誘惑に逆らえず、私はまた手を伸ばす。今度は鮮やかな黄緑色のものにしてみる。
セドさんも静かに手を伸ばし、今度は茶色のものにしたみたい。
馬車の中は、しばらくマカロンの甘い香りで満たされていた。
*
「おやつも食べたし、そろそろ魔塔に行くよ~!」
エリオット殿下は楽しげに手を叩くと、王都の静かな庭園へと馬車を向かわせた。
そのことを私は不思議に思う。
「……魔塔は王都から離れた山岳地帯にあるのではありませんか?」
魔塔は王国の魔術研究の最前線であり、王都から遠く離れた場所にそびえ立つ巨大な塔。
普通の馬車では簡単に行けないと聞いている。
それなのに、どうして?
「そうだけど~わざわざ馬車で山を越えるのは面倒でしょ? だから、王都内に転移陣のポイントがあるんだよ!」
「転移陣ですか……?」
思わず聞き返すと、エリオット殿下は「そうそう!」と頷いた。
「王都のとある場所にある転移陣を使えば、魔塔の玄関ホールまで一瞬で移動できるんだ~。ただし、それを使うにはボクの許可が必要なんだけどね!」
なるほど。だから魔塔が王都から離れた場所にあっても、王族や研究員たちは不自由なく行き来できるのか。
またひとつ魔塔の不思議を知って、私は興味深く頷く。
「リリアナ、ちょっと左手を貸して」
「は、はい」
エリオット殿下は私の左手を取り、指先でそっと触れる。
「じっとしててね~」
——次の瞬間。
左手の甲が熱を持ち、赤く輝く蓮の形のような紋が刻まれた。
「……っ!」
何かが肌に馴染む感覚。
「はい、完了!」
エリオット殿下がパッと手を離すと、左手の甲には一瞬、魔法陣のような紋が赤く輝き、それがすぐに肌へ溶け込むように消えていった。
「これがあれば、魔塔への転移陣を使えるようになるし、魔塔の中にも自由に出入りできるよ!」
私は自分の左手の甲をじっと見つめる。
何もないように見えるが、魔塔に行くための”鍵”が刻まれている。
そのことに胸を躍らせながら、馬車に揺られることとなった。