閑話 エドワード・バークレー
静まり返ったバークレー伯爵家の応接室。
僕は目の前の父の怒りに満ちた顔を見ながら、無意識に唇を噛んでいた。
「……お前は、一体何を考えているのだ? エバンス伯爵より婚約解消を求める書状が届いている」
低く、冷たい声だった。
父の声には、怒りと失望が滲んでいる。
——何を考えているのだ、だと?
そんなの、決まっている。
僕はただ、自由が欲しかっただけだ。
リリアナとの婚約は、祖父の代から決まっていた政略結婚。
僕が望んだわけじゃない。
それなのに、あの女はまるで当然のように僕の傍にいた。
控えめで、従順で、つまらないほど空気のような存在——。
「お互いの意にそぐわない婚約が解消できるのです。なにか問題でもあるのですか? それに、アルトマン男爵はかなり財産もあると聞いていますし、願ったり叶ったりでは──」
僕はあえて不遜な態度で父を見た。
しかし、父はさらに険しい顔になり、机を拳で叩く。
「問題だらけだ!」
「……っ!」
鋭い声に、僕は無意識に肩をすくめる。
「エバンス伯爵家からの取引はすべて白紙になった。彼らとの関係は修復不可能だ!」
「は? そんな……そこまでのこと……」
驚きに声を詰まらせた。
取引の白紙? 修復不可能?
——そんなはずはない。
「リリアナとの婚約を解消しただけでそこまでのことになりますか? まあでも、アルトマン男爵との縁を深めればその損失もすぐにカバーできますよ。悪い話ではないはずです」
「馬鹿を言うな!」
父の怒声が響く。
「お前はリリアナ嬢を目の前で侮辱し、挙げ句に浮気相手を堂々と抱き寄せていたそうじゃないか!」
「……それは」
僕は言葉に詰まる。
だが、それはただの出来心だった。
むしゃくしゃしていたから、僕は何も考えずにカミラと甘い言葉を交わしていただけで——。
「それがどれほど彼女とエバンス伯爵家の顔に泥を塗ったか、考えたことがあるのか?」
「……っ、いやしかし! そんなものはリリアナの言い分でしょう? 確かにカミラと話していましたが、そのような事は一切ありません。慰謝料欲しさにでっち上げているのでしょう」
幸い、あの場にいたのはリリアナだけだ。
自分を有利な立場に持っていこうと虚偽の証言をするのはよくあること──そういう形に持っていけば、そのあたりは上手くやれるかもしれない。
そう思って告げると、父は苦悶するように頭を押さえた。
「……この期に及んで、お前は……! お前がしでかしたことの音声・映像共にしっかりと残っておるそうだ!」
「は……なんだよそれ! リリアナが最初から仕組んでたのか!? 大人しい顔をして、とんだ女狐だな!」
だからあの時リリアナはあの場所にいたのか?
だったら嵌められたのは僕の方じゃないか!
怒りに任せてそうぶちまけると、父の顔から色が消えた。
全てを見限ったような、そんな顔をしている。
「……証拠は全て、《《偶然》》その場に居合わせた御方が記録していたものだ」
「……っ、そんなことは関係ない!」
僕は叫ぶように言った。
「僕はカミラと自由に恋愛をしていただけだ! リリアナとは、そもそも……」
だが、その言葉を最後まで言えなかった。
父の冷たい視線が、僕の喉元を締め付けるようだった。
「ならば好きにしろ」
静かな一言が落ちる。
そして——
「だが、家のことはお前に任せられん。お前はもう次期当主ではない」
「——なんだって?」
言葉の意味が、理解できなかった。
「お前はもう、ただの伯爵子息だ。家の跡継ぎには、別の者を立てる」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
慌てて立ち上がったが、父はもう目も合わせようとしなかった。
「お前の軽率な行動のせいで、家の立場は危うくなっている。これ以上、愚行を重ねさせるわけにはいかん」
——そんな、嘘だろ?
伯爵家の次期当主の座を、失った……?
僕が間違っていたというのか?
信じられない。
何がいけなかった?
結婚前の火遊びなんて、みんなやっていることじゃないか。愛妾がいる貴族も多いだろう!
僕だってただ、自由になりたかっただけだ!
それなのに、どうして——!
***
それから数日後、僕はカミラと会っていた。
「ねぇ、エドワード様ぁ……」
カミラが甘えるように僕の肩に寄りかかる。
「リリアナ様とは婚約解消にはなりましたのよね? これから、私たちはずっと一緒なんでしょ?」
「……」
僕は、彼女の顔をまともに見られなかった。
何かが違う。
カミラの香水の匂いが、やけに鼻につく。
「……エドワード様? お疲れですの?」
彼女が頬を寄せてくるが、僕は思わず手で振り払ってしまった。
「っ……」
カミラの表情がこわばる。
「……どうして避けるの?」
「いや……別に」
僕は誤魔化しながらも、どこか苛立ちを感じていた。
カミラの甘ったるい声が、耳に障る。
前はこんなことなかったのに——。
「……エドワード様、最近変よ?」
カミラが不安そうに俺を見上げる。
「私と一緒にいるのが、嫌になったの?」
「……別に、そういうわけじゃない」
それは嘘だった。
正直、あれからカミラといることが息苦しく感じるようになっていた。
「昔みたいに、優しくしてよ……」
カミラが縋るように腕を絡めてくるが、僕はその手を引き剥がした。
「……もう帰る」
「え……?」
「帰るって言ってるんだ」
僕はそう言い残し、彼女に背を向けた。
***
僕は、一人になった部屋で、無意識に額を押さえていた。
カミラは、違う。
求めていたのは、こんなものじゃなかった。
——そうだ。
リリアナなら……。
思考の奥底から、ふとその名前が浮かび上がった。
リリアナなら、もっと静かで、もっと控えめで、いつも僕を心地よく支えてくれていた。
あいつは、いつも側にいてくれた。
「……いや、まだ間に合うはずだ……リリアナさえ戻れば、なにもかも元通りだ……」
リリアナなら話せばきっと分かってくれる。
あいつは、優しいから。
それに、僕に合わせて地味にしてくれていたということは、僕と別れたくなかったからだろう?
なんてことだ! リリアナの深い愛に、今更気がつくなんて!
僕も、リリアナを愛していたんだ!
彼女も僕を愛している!
その気持ちを伝えれば、僕は全て元通りだ!
「そうだ……リリアナは僕を愛しているからこそ……合わせてくれていたんだ……ふふ、ふふふ……」
僕はそう呟きながら、ゆっくりと笑みを浮かべた。