最終話 空気のように
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薄曇りの空の下、王都の外れにある静かな霊廟を、私はセドリック殿下とともに訪れていた。
小高い丘に立つ、白い石造りの墓標。その前に刻まれた名――「アデライド・ウィンフォード」。
セドリック殿下の母であり、第二王妃として王の寵を受けた女性。
花を供えたあと、私は黙って祈りを捧げた。隣に立つセドリック殿下もまた、まっすぐな目で墓標を見つめている。
「母上は……病に倒れたと、ずっと聞かされていた。だが、あれも……すべて嘘だった」
低く落ち着いた声。その奥には、深い怒りと、静かな哀しみがあった。
王の寵愛を一身に受けていたアデライド妃は、表向きには体調を崩して病死したことになっていた。だが今回の調査で、真実が明らかになったのだ。
「クラリス妃が……母上の飲み物に、少しずつ毒を混ぜていた。誰にも気づかれないように、ゆっくりと」
それは、彼女が決して許されざる妃であったことの証。愛する者を手に入れられなかった代わりに、憎しみだけを燃やし続けた結果だった。
セドリック殿下の後ろ盾をなくし、殿下を狙い、そして王妃を失脚させてアルフォンス殿下の後ろ盾をなくす……彼女にとって、自分とエリオット殿下以外は不要だったのだろう。
「……報告が遅くなって、すまない。母上」
セドリック殿下が、そう言ってひざをつき、ゆっくりと手を合わせる。その背を見ながら、私は胸の奥にじんわりと広がる痛みに息を呑んだ。
だけど、ようやく真実が届いた。今なら、妃は少しだけ安らかに眠れるのではないか――そんな風に、思えた。
(これでもう、殿下に護衛は必要ないのね)
涼やかな風が頬をなで、肩の力がふっと抜けていく。
少し寂しい。でも、これでいい。殿下にはやっと平和が戻ってきたのだもの。
私の役目はここまで。明日からは、ただの令嬢に戻るんだ。
でも。空気のような令嬢では、もういない。
自分の意志で動ける。そんな私でいたい。
――そう、思っていたところだった。
「ところで、エリオットとアイリスの婚約の話だが」
唐突に、セドリック殿下がそんなことを言い出した。
「えっ?」
あまりに予想外すぎて、声が裏返りそうになる。しかも、さらりと、とても真面目な顔でおっしゃったものだから、なおさらだ。
「正式な婚約式はまだ先だが、そのように動いている。クラリス妃のことがあったといえ、エリオットは魔塔の主でアイリスは治癒の使い手。彼女を守るためにも良い組み合わせだ」
「は、はい……それは私もそう思いますが……でも、どうしていきなり……?」
私は目をぱちくりとさせながら、なんとか問い返す。
セドリック殿下は、ふっと笑った。
それから静かに私の手を取り、いつものように落ち着いた声で言う。
「リリアナ・エバンス。君の護衛の任を、ここで解こうと思う」
「はい」
少し寂しいけれど、仕方ない。もう、平和が戻ったのだから。
私は気持ちを切り替えるように、そっと頷いた。
けれど、殿下の次の言葉が、その平穏を一瞬で吹き飛ばす。
「そして君に、婚約を申し入れる」
「はい。……はい!?」
思わず裏返った声が、静かな丘に響いた。
自分でも驚くほどの大音量だったのに、殿下は眉ひとつ動かさず、当たり前のように言葉を重ねる。
「君がいなくなるのは嫌だ。君の力も、存在も、隣にいてくれることも。すべてを俺は必要としている」
「ま、待ってくださいっ……護衛の任を解いてからの流れが、あまりに急すぎて」
あたふたと手を振る私を、殿下はどこか楽しげに見つめている。
その目が、ただの冗談ではないことを物語っていた。
「俺の立場上、自由に生きようとする君の人生を縛ることになるだろう。だが、俺は本気だ。……君の返事は、急がない。けれど、何度でもこうして言うつもりだ」
ぐい、と手を引かれて、気がつけばほんのわずかに距離が縮まっていた。
心臓がどくん、と音を立てる。
「君がそこにいるだけで、俺は救われた。……ありがとう、リリアナ」
小さな声。けれど、その優しい真心が、胸の奥にしみこんでいく。
「君が『空気みたいだ』なんて、もう誰にも言わせない。……いや、俺にとっては最初からずっと、空気のようになくてはならない大切な存在だった。君といると、不思議と息がしやすいんだ」
その言葉はまるで春の風みたいに、私の胸の奥にふわりと入り込んでくる。
私は、返す言葉を失ってしまっていた。頭が真っ白になって、うまく呼吸ができない。胸がいっぱいで、声が出ない。
「……困らせてしまったな」
そう言って、セドリック殿下が少しだけ目を伏せた。
「だけど、どうしても伝えたかったんだ。母の前で、君がどれほど大切かを。……今日のところは帰ろう。返事はいつでもいい」
そう言って彼が歩き出そうとした、その背中を、私は思わず呼び止めた。
「ま、待ってください」
彼が振り返る。
私の心臓が、どくん、どくんと高鳴る。
(どうしたいの、私)
静かに、自分に問いかける。これまで何度も我慢してきた。空気のように振る舞ってきた。だけどもう、そんな私には戻らない。
(私はもう、我慢をしないと決めた)
私も、セドリック殿下といると心が安らぐ。
公爵令嬢との婚約話が出たとき、モヤモヤしたのはどうしてか。彼が断ると聞いたときに嬉しく思ったのはなぜか。
そう思えば、自然と答えは出た。
私は真っ直ぐにセドリック殿下を見た。紫色の綺麗な瞳。その瞳に、私が映っている。それがとても嬉しい。
「セドリック殿下。私でよろしければ……喜んでお受けします」
ひとつ深呼吸をして、そう答えた。
その瞬間。セドリック殿下の瞳が、見開かれる。
「……本当か?」
「はい。……本当、です」
言い終えるか終えないかのうちに、彼が私に歩み寄って、ぐいと抱き上げた。
「きゃっ……!?」
そのまま、私の体が宙に舞った。
「そうか! リリアナ! ありがとう」
くるくると、柔らかな風に乗って、まるで空を飛んでいるみたい。空気になったみたい。でも、それは誰にも気づかれない透明な存在なんかじゃない。
嬉しそうなセドリック殿下は、まるでエリオット殿下みたいに無邪気だ。やっぱり兄弟なのねと、揺られながら片隅で思う。
私のことを、ちゃんと見てくれる人がいる。触れて、抱きしめてくれる人がいる。
「君がどこにいても、俺が必ず見つける。……それが、俺の誓いだ」
彼の声は、優しくて力強かった。
風に包まれながら、私はただ、笑っていた。
やがて、くるくると回っていた腕の力がそっと緩む。地面に足がつくと、現実に戻ってきたような、でも胸の奥はまだふわふわと夢の中にいるような気がした。
「……リリアナ」
呼びかけられたその名に、顔を上げる。
次の瞬間、彼の手が頬に添えられた。
そのまま、そっと――本当にそっと、唇が重ねられる。
やさしい風が頬をなでるような、あたたかくて、やさしいキスだった。
目を開けたとき、彼がそっと微笑んでいた。私は恥ずかしさに頬を赤くしながらも、その笑顔をまっすぐに見返した。
空気のように、いつでもこの人を包み込んであげられるような私でありたいと、心から思った。
おわり
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
『空気みたいだとあなたが仰ったので』は、「空気のような存在」と言われてしまった令嬢が、自分の居場所を見つけ、大切な人に出会い、少しずつ前を向いて歩いていく物語です。
最初はただ流されるままだったリリアナが、『空気のような』のマイナスの意味をプラスに変えていける成長の物語が書けていたらいいな……と思います。
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新作連載「不遇王女はナレ死の運命を回避したい!」もよろしくお願いします!! ミズメ