39 とある令嬢
「まあ……殿下方お三人のお姿が揃うなんて、本当に久しぶり。第二妃様がご存命だった頃以来かしら?」
ブーモア伯爵夫人の、ひとりごとのような呟きが耳に届いた。
まるで舞台の幕が上がったかのように注目を集める、王族の登場。整然と並ぶその姿は、まさしく国の象徴だった。
国王はおらず、王太子のアルフォンス殿下が静かながらも威厳ある声で挨拶を始める。
(……あ、セドリック殿下)
壇上を見ていたら、紫の瞳を持つその人と、ふと視線が交差した。
殿下は、わずかに目を細め、やわらかな笑みを浮かべてくださった。
その優しさに満ちた表情を見た瞬間、会場が一瞬だけざわついたように感じた。
そして、その隣にいたエリオット殿下に至っては——遠慮という概念を置き去りにしたかのような笑顔で、こちらに向かって盛大に手を振ってきていた。
その自由さに、私は思わず小さく噴き出しそうになって、慌てて口元を手で覆う。
「くっ、エリオット殿下……!」
レオン兄様ががっくりと項垂れている。いつもおそばに控えているのは兄様だものね。周囲の人は、エリオット殿下がレオン兄様を見つけて手を振ったと思ったようで、ざわめきも徐々に収まり始めた。
(もう、エリオット殿下ったら……)
そう思っているうちに、アルフォンス殿下の挨拶も穏やかに締めくくられた。拍手が鳴り、会場には再び優雅な音楽が流れ始める。
それを合図に、参列者たちは自然と動き出した。広間の端の方には煌びやかな銀器と美しい彩りの料理がずらりと並び、立食形式の宴が始まる。
黄金色の葡萄酒が満たされたグラス。薔薇の形に飾られたパイ。まるで宝石のように繊細な前菜が乗った小皿が、給仕たちの手で次々と運ばれていく。
「リリアナ、何かつまもうか」
「はい、お兄様」
殿下たちはあっという間に皆に囲まれて歓談に興じている。そして壇上ではエレオノーラ妃とクラリス妃が一見するとおだやかに会話を交わしているように見えた。
軽食をつまみ、会場がよく見える位置に移動する。
すると、会場の入り口付近からまた大きなざわめきが起きた。
「……あれは……妖精姫……!」
誰かのかすれた声が、波紋のように広がっていく。
扉の奥から現れたのは、まばゆい光を纏うような美しい令嬢――アナスタシア・フェルナー……アイリスだ。共に入場してきたのは公爵夫妻だろうか。
彼女の銀色の髪と透き通るような瞳、儚さと気品を兼ね備えた姿に、会場中の視線が一斉に注がれる。
貴族たちが声をかけようと身を乗り出す中、アイリスは誰にも目もくれず、まっすぐに私のもとへ駆け寄ってくる。
「リリアナ! よかった、会えたのです!」
その場が静まり返った。会場の空気が変わるのを、ひやりとした感覚で肌が教えてくれる。
ブーモア夫人をはじめとした貴婦人たちが、ざわめきながらこちらを見つめていた。誰もが目の前の光景を信じられないように、息を呑んでいるのがわかる。
私はそんな視線を受け止めながら、微笑みを浮かべて一歩前へと進む。
「ごきげんよう、アナスタシア様。こうして再びお目にかかれて、私も嬉しく存じますわ」
自然に背筋が伸びる。貴族令嬢としての礼儀と気品を込めて、静かに頭を下げると、アナスタシアは花が綻ぶように笑った。
「ふふ、リリアナったら。わたしのことはアイリスと呼んでと言ったじゃありませんか。お友達なのですから!」
「ですけれど、ここは正式な場ですもの」
「リリアナは特別なのです」
彼女の無垢な言葉と笑顔に、周囲の反応が見えるようだ。
聞かせるように会話を続けるアイリスに、私は仕方がないと言った顔で頷くことにする。
「わかりましたわ、アイリス様」
そう言った後、私は思わず小さく息を呑んだ。
背筋にぴりぴりとした不穏な気配を感じた。空気の流れが歪んでいるような気がする。
(この魔力……また嫌な感じ。誰か、何かを仕掛けようとしているのかしら)
アイリスと交わした挨拶の余韻がまだ胸に残る中、ふと気配を感じて顔を上げる。
人々の視線の先に、セドリック殿下が、凛とした足取りでこちらへと歩みを進めていた。
彼の姿がはっきりと見えた瞬間、自然と胸の奥が温かくなって、私は知らず、柔らかく微笑んでいた。
セドリック殿下が私たちの前に立つと、さりげなく私とアイリスの間に目を移し、どちらにも同じように穏やかな笑みを向けてくれる。
「リリアナ嬢、アナスタシア嬢。こうして並ぶと、まるで春の花々が咲き誇っているようだな。レオンもそう思わないか?」
「は。そのとおりです」
セドリック殿下がそう言うと、レオン兄様はさっと胸に手をあてて腰を折る。
アイリスは驚いたように目を瞬かせると、私の方を見てにっこりと微笑んだ。
むふふ、とでも聞こえてきそうな意味深な微笑みだわ。何かしら。
私はといえば、褒められ慣れていないせいで、何とも言えないくすぐったさを覚えている。
「身に余るお言葉ですわ、セドリック殿下」
「ふふ、わたしも、嬉しいのです!」
見知った顔が集まると、一気に緊張がほぐれるような気がする。
セドリック殿下とアイリス。二人に会場の視線が注がれているのがわかる。それでもこの空間にだけは和やかな空気が流れていた。
「ごきげんよう、セドリック殿下。お久しぶりです」
その空気を切り裂くように、艶やかな声が背後から届いた。ふわりと甘く強い香りが空気を満たし、場の雰囲気がわずかに揺れる。
カミラだ。
「君は……」
セドリック殿下はあからさまに怪訝な顔をする。
そうだ、ふたりが以前会ったのはあの廊下でのこと。良い印象ではなかったのは明白なのに、カミラはそんなことはまるでなかったかのように完璧な笑みを浮かべている。
「わたくしもお話に入れてくださいな」
そう言いながら、カミラはゆったりと歩を進め、私のすぐ隣まで近づいてくる。
わざとらしく肩が触れるほどの距離で、しかも一度も目を合わせようとはしない。まるで「あなたの存在など眼中にない」とでも言うように、私を視界に入れることすら拒んでいる。
(……来るわね)
嫌な予感が、脊髄を伝って背筋を走る。
カミラは私の横を通り過ぎる瞬間、ふわりとスカートを揺らして、さも偶然を装った動きで私の肩へぶつかってきた。その動きはあまりに自然で、周囲からはただのよろめきに見えたかもしれない。
けれど、私の身体はもう反応していた。
重心を片足に乗せ、わずかに身体をひねる。呼吸とともに身を沈めるように一歩引いたその動きで、彼女のぶつかる勢いをするりと受け流す。
そのとき、彼女の手元にあった葡萄酒のグラスが大きく傾いた。高級な黄金の縁取りがきらりと光り、中の紅が宙に放たれる寸前。 私は素早く手を伸ばし、グラスの脚をしっかりと掴んだ。
赤い液体が揺れただけで一滴もこぼさず、完璧な姿でそのままホールドする。
「……お怪我がなくて、よかったですね」
私が静かに微笑んでそう言うと、カミラは床に片膝をついたまま見上げてきた。顔には驚きと苛立ち、そして焦りが混ざったような色が浮かんでいる。
私はそっと手を差し伸べ、手にしたグラスを彼女の目の前に差し出した。
「お持ち物、落とされましたわ」
その瞬間、カミラの手が震えた。
わなわなと、明らかに抑えきれない怒りに突き動かされるように。彼女は私の手からグラスを奪い取ると、今度はそれを高く掲げた。
「っ……!」
あまりに突然の動きに、私は息を呑んだ。
カミラはそのまま、グラスの中に残っていた葡萄酒を、私に向かって勢いよく振り下ろす。
冷たい感触が肌に触れることを覚悟して、私は咄嗟に目を閉じる。
でも、衝撃も、液体も、何も来なかった。
(……? どうしたのかしら)
そっと目を開けると、すぐ目の前に見慣れた背中があった。
「セドリック……殿下……?」
私の前にいたのは、セドリック殿下だった。片腕をわずかに掲げたその姿勢のまま、動かない。
彼の肩口にはカミラが放った葡萄酒が赤々と染みをつくっている。
けれど……それはただの葡萄酒ではなかった。
かかった部分の布が、じゅう、と音を立てて不自然に溶けていた。生地は焼け焦げたように縮み、淡い煙のようなものが立ち上っている。
「セドリック殿下!?」
何が起こったのかわからない。私は急いでセドリック殿下の様子を見ようと前に出る。
服を溶かしてしまうほどの強い液体──いわゆる劇薬と呼ばれる類いのものを、カミラが持ち込んだ……?
「なんだこの液体は……、女!」
レオン兄様がすぐに動き、カミラを捕らえた。
会場に、静かな恐怖の気配が広がっていく。
「おまえは、何を入れた?」
セドリック殿下のその声には、王族としての威厳と怒りが込められていた。
カミラは顔面を蒼白にし、手にしていたグラスを取り落とす。ガシャン、と割れた音が会場の沈黙を裂いた。