38 背筋を伸ばして
扉の向こうから、微かな音楽と人々のざわめきが漏れ聞こえてくる。煌びやかな夜会の会場。その重厚な扉が、ゆっくりと開かれる直前――
「リリアナ、緊張しているのか?」
小さく問いかけてきたのは、隣に立つレオン兄様だった。
「……はい、少しだけ。でも、大丈夫。レオン兄様が一緒ですから」
私は静かに微笑む。背筋を伸ばし、正面を見据えた。
「エバンス伯爵家ご子息レオン・エバンス様ならびに、ご令嬢リリアナ・エバンス様、ご入場です!」
入場を宣言する高らかな声が響くと、会場の空気がわずかに変わった。
大理石の床に靴音を響かせて、レオン兄様と私はゆっくりと歩みを進める。
高い天井に吊されたシャンデリアが燦然と輝き、金と銀の装飾が施された大広間は、秋の月を愛でる宴にふさわしい華やかさに包まれている。
けれど、今そこにいた誰もが、扉の方を振り返っていた。
去年までの私なら、きっと俯いていた。誰にも気づかれないことを願いながら、エドワード様の後ろを影のように歩いていたはずだ。
けれど今は違う。
煌めく月光のようなドレスに身を包み、銀糸がひそやかにきらめく。私は背筋を伸ばしてその視線を受け止めていた。
その隣で歩くレオン兄様も、微かに口角を上げながら人々の視線を受け流している。堂々とした足取り、優雅な所作。さすが近衛騎士。貴族の注目を浴びるのも慣れたものだ。
(そういえば、こうしてお兄様にエスコートをされるのは初めてかもしれないわ)
小さいとき、お茶会でおままごとのようなエスコートをされたことはある。
私のことを誰よりも気にかけてくれる、優しくて、時に過保護なくらいに心強い兄。けれど、こうして腕を取って歩く距離は、やっぱり少しくすぐったい。
「……お兄様にエスコートしていただくなんて光栄だわ」
小声で、そっと囁いた。ちらりと兄様を見上げれば、わずかに瞳を細める。
「素敵なレディをエスコートをできて光栄だ。突然変な爆発実験をされることもない」
「まあ」
ふっと、目を丸くする私に、レオン兄様は小さく肩をすくめる。
まるで冗談のように言うその声音に、思わずくすりと笑ってしまう。
その爆発実験に心当たりがありすぎる。いつもならばエリオット殿下に仕えているはずのお兄様がこうしてここにいるのも、ひとつの役割だ。
「こんなに頼もしいお兄様に、今夜は守ってもらえるのですね。ふふ」
「当然だろう。大切な妹なんだから」
その言葉に、胸がじんわりと温かくなる。
夜会で、何が起きるかは分からない。
けれど、私の傍には兄がいてくれる。そう思えるだけで、心強かった。
会場を進んでいると、ひそひそと交わされる囁き声が耳に届いて私は緩んでいた頬を引き締める。
「あの令嬢……どなたかしら?」
「エバンス家のご令嬢はこんなに目を引く方だったかしら」
「バークレー家のご子息は、謹慎中だったか」
注目を集めるのが怖いと思っていた。でも今は、むしろ落ち着いていられる。胸の奥に確かな覚悟があるからだ。
空気のように佇んでいた令嬢は、もういない。
奥の演奏台からは、繊細な弦楽四重奏が流れていた。
ヴァイオリンが夜の空気をなぞるように軽やかに踊り、チェロの低音がその下で静かに寄り添う。
レオン兄様にエスコートされながら、少しずつ前の方へと進む。
背筋を伸ばし、微笑みを忘れずに――そう言い聞かせながらも、慣れない視線の波に心臓は高鳴るばかりだ。
私はゆるやかに一歩ずつ進み、立ち止まる間もなく貴婦人たちの輪へと誘われていく。
「あ〜ら! 見違えるようね、エバンス嬢!」
高らかに響く声とともに、ふわりと甘い香水の香りが漂ってくる。
そこで再び出会ったのは、噂好きで知られるブーモア伯爵夫人だった。
豊かな体格に負けぬ存在感、頭には赤紫の羽根飾りをつけた大ぶりの帽子。装飾過多なドレスが体を包み、どこにいても目を引くその姿は、まさに社交界の“情報の渦”といった様相だった。
私の姿を見るなり、夫人はまるで劇場の幕が上がったかのように目を丸くし、扇を片手にこちらへとにじり寄ってくる。
「まぁまぁ、あなたが、あの空気のようだった令嬢? バークレー家のご子息に婚約破棄されたのだとか? うふふ、貴族社会って、いつ何があるか分からないものねぇ」
興味津々といった様子で、夫人は扇の陰からこちらを覗きこむようにして言う。
その後ろでは、他の貴婦人たちも興味深げにこちらを見ていた。値踏みするような、あるいは品定めするような視線――それは、この場に立つ者なら誰もが経験する洗礼のようなものだ。
「ごきげんよう、ブーモア夫人」
にっこりと微笑んで、私はゆっくりと頭を下げる。
「バークレー様とは婚約破棄されたのではなく、婚約解消をしたのですわ。ニュアンスが異なりますので訂正させていただきます」
静かながらも凛とした声が、思いのほかはっきりと場に響いた。
夫人の扇が一瞬止まり、周囲の空気がぴたりと張り詰める。
けれど私はそのまま、優雅な笑みを崩さなかった。隣でレオン兄様がどこかハラハラとしていそうなのが伝わってくる。
そして、その緊張を破ったのは、思いがけない人物だった。
「まあまあ! そう来るとは思わなかったわ!」
ブーモア夫人が、腹の底から楽しげに吹き出すように笑い声をあげた。
その声に、周囲の夫人たちが一斉に目を見開く。
「いいじゃないの、リリアナ嬢。貴族令嬢もそうあっていいと思うわ! 正直、あのご子息は浮名を流し過ぎていましたものね!」
ぱちんと扇を閉じて、夫人はにんまりと笑う。その顔はすっかり上機嫌で、まるで面白い舞台を見つけた観客のようだった。
「あなた、これからが楽しみねぇ。ふふ、応援させていただくわ」
その言葉に、周囲の夫人たちも笑みを浮かべ始める。手のひらを返すのもまた、貴族社会の日常。
私はただ、変わらぬ微笑を浮かべて「ありがとうございます、夫人」と頭を下げる。
夫人は私の顔をじっと見つめながら、扇をひらひらと動かした。
「今日はね……王子殿下の婚約者発表があるらしいわよ?」
小声のつもりなのか、大きな羽飾りの影からひそひそと囁くその声は、なぜかよく通る。周囲にいた夫人たちの目が一斉に輝きを増した。
「まあ」「まあまあ」とさざ波のように声が重なり、私は咄嗟に曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。
(……そのような話、私の耳には届いていないけれど)
アイリスの件もある。彼女の名前が出ないよう、水面下で動いているという話は魔塔で聞かされていた。けれど、具体的に「この夜会で何が発表されるか」などという話は、私には一言も伝えられていない。
レオン兄様の方を見上げると、同じように丸い瞳が返ってきた。お兄様も知らないみたい……?
楽団の音がゆるやかに静まり、会場は張りつめた沈黙に包まれ始める。
「あら……まもなく、王族の方々のご入場ですって」
扇をあおぐブーモア夫人の声も、ひそやかだ。
一斉にざわめきが止み、重厚な扉が、ゆっくりと音を立てて開かれた。
まず現れたのは、豪奢な金糸のドレスをまとったエレオノーラ王妃。そして、真紅の装束に身を包んだクラリス王妃が続く。
その後ろに、三人の王子たちが並ぶようにして姿を見せた。
堂々とした風格を漂わせる第一王子アルフォンス殿下。
その隣に、紫の瞳を静かに光らせながら歩むセドリック殿下。
そして、白金の髪に鮮やかな赤の瞳をもつエリオット殿下。
王族が揃って歩みを進める姿に、会場中の視線が吸い寄せられていく。
私も姿勢を正し、彼らの姿をじっと見つめた。