37 月華の夜会
エバンス伯爵家に王宮からの招待状が届いたのは、それから二月が立ち、初秋の涼風が頬を撫でた日だった。
《月華の夜会》と呼ばれるそれは、毎年この季節に王家主催で行われる由緒正しき夜会だ。
名目は、秋の月を愛でる優雅な晩餐と舞踏会。しかし実際には、次代を担う貴族の青年と令嬢たちが集い、縁談や政治的結びつきを探る――格式高くも思惑渦巻く社交の場となっている。
去年までは、私もその場に立っていた。エドワードの婚約者として参加し、空気のようになっていた。
今となっては、どうしてそうしていたのだろうと思うけれど。その時の私にとっては、その立場が全てだった。
(心のありようで、ここまで気持ちが変わるなんて)
貴族令嬢にとって、縁談はとても大切なもの。この時期に破談となってしまうと、なかなか次の縁談は決まらないだろう。それでも清々しい気持ちでいられるのは、自分で選択したことだから。
招待状の宛名には、両親とレオン兄様の名とともに「ご令嬢リリアナ・エバンス殿」の文字が記されていた。
「リリアナ。当日はしっかりおめかしして行きましょうね」
「でもお母様、私は夜会にはもう……。エスコートする方もいませんし」
「レオンがいるではありませんか」
「レオン兄様はエリオット殿下の護衛のお仕事があるのではないかしら。私も当日は侍女として会場にいるつもりです」
「まああなたはまたそんなことを言って。兄妹ともに仕事熱心なのはよいですが、母にもあなたを飾らせてほしいわ。ほら、こんな贈り物もいただいているのですから」
お母様がそう言って見せた大きな箱には、ドレスが入っていた。
濃い紫を基調とした上品な光沢のある生地には月光のような銀糸が織り込まれていて、角度によって艶やかな輝きを放っている。袖口には繊細な黒色のレース、胸元には気品ある装飾。まるで夜の帳に咲く一輪の花のような、凛とした美しさを湛えたドレスだった。
「……これを、私が着るのですか……?」
おそるおそる問いかけると、母は穏やかに微笑んだ。
「ええ、そうよ。あなたがあれに合わせて地味なドレスばかり着るから、わたくしもヤキモキしていたの。当日は誰よりも美しく仕立てますからね!」
気合い十分だ。メラメラと燃えていることがわかる。
私は吸い寄せられるように、そのドレスにそっと触れた。
「綺麗……」
思わず口をついて出た言葉に、自分でも驚く。
夜会や茶会が億劫だったあの頃は、飾り立てることにも心が動かなかった。与えられた衣装をただ纏い、誰の視線も気にせず空気のように立っていた。
それでもこのドレスを前にすると、胸の奥からじんわりと、何かが沸き立ってくる。
「こちらは、どなたからなのでしょう……?」
目の覚めるような紫。その色をまとう御方を、私は知っている。
「セドリック殿下からです。手紙も預かっているわよ」
「あ、ありがとうございます」
母がそう言って差し出してきた封筒を、私はそっと受け取った。
手が自然と震えてしまう。丁寧に封を切り、便箋を開くと、几帳面な筆致で綴られた言葉が目に飛び込んできた。
《このドレスを、ぜひ貴女に着ていただきたい。銀の糸には、祈りと護りの魔法を込めてあります。当日はエスコートできない事が口惜しいが、貴女がこの夜を誇り高く安全に過ごされることを願って》
読み終えたときには、胸が高鳴っていた。怖れではなく、ときめくように。
今度の夜会は、あのときカミラが言っていた夜会なのではないか。そう思ったからこそ、侍女としてセドリック殿下のおそばに控えようと考えていたのだ。
(気を引き締めないと)
私は、つい数日前のやりとりを思い出す。
結界事件の調査結果が出た後、魔塔の一室で皆で話をした。
セドリック殿下、エリオット殿下、アイリス、そしてレオン兄様。皆が真剣な面持ちで、今回の夜会に不穏な動きがある可能性について述べる。
『今度の月華の夜会で、あの人はまた何か仕掛けてくるはずだ』
そう断言したのはセドリック殿下だった。
王宮内に残るわずかな異変、給仕に紛れ込んだ不審な者たちの動向。水面下でうごめく陰謀の気配を、殿下たちも既に感じ取っている。
『信じたくはなかったけど、もう間違いはないだろうね』
エリオット殿下のその顔はどこか悲しげで、アイリスも眉を下げながら頷いている。
そうして、それぞれに“役割”が与えられた。
アイリスは公爵令嬢として出席し、王妃さまの近くに。レオン兄様もエリオット殿下の護衛だから当然として、私もその役割のために会場に行く必要があった。
(……てっきりいつものように、お仕着せの控えめなドレスを身につけて、目立たないように隅で立っているのだろうと思っていたわ)
私は意識を目の前のドレスに戻す。不相応なほどに立派なドレスだ。
確かにセドリック殿下に『危険なことはあるかもしれないが、リリアナも参加してほしい』と言われたけれど、こんなドレスを用意しているだなんて知らなかったわ。
触れると、わずかに魔力を感じた。
手紙にあるとおり、この刺繍糸には魔力を纏わせてあるみたい。
そう思った瞬間、親指をグッと立てたエリオット殿下のいい笑顔が脳裏に過った。まさかこのドレス、とんでもない力を秘めていたりはしないわよね?
触れた人が吹っ飛んだりとか……。
その点についてはこわいけれど、この色を纏ったら、なんにでもなれるような気持ちが湧いてきた。
「お母様……このドレスに、ちゃんと似合う人になれるように……ご指導、お願いできますか?」
そう言った私を、母は驚いたように一瞬だけ見つめ、それからふんわりと微笑んだ。
「もちろんよ、リリアナ。美しいあなたを、これまで侮ってきた人たちに見せつけてやりましょう!」
「お母様ったら」
「母は本気ですからね」
「ふふ……ありがとうございます」
その答えの頼もしさに、わたしは心から微笑んだ。
*
夜会当日の夕刻。窓の外には、ゆるやかな茜色が漂い、風がカーテンをふわりと揺らしていた。
「まるで、別人みたい」
鏡に映る自分を見つめながら、私思わず小さく呟く。
けれど、その声は震えていた。
滑らかな艶を帯びた紫のドレスは、動くたびにほのかな輝きを放っている。
髪は丁寧に結い上げられ、黒いリボンの飾りがきらりと光る。
今日は母の助言でいつもよりもくっきりとしたメイクが施され、淡い紅をさした頬と唇も、私の知っている私ではないようだった。
こんなふうに、誰かに見られることを前提として身なりを整えたのは、一体いつぶりだっただろう。
「リリアナ様、本当にお綺麗です……!」
感嘆の声を上げたのは、幼いころから仕えてくれている侍女だった。彼女も目元を潤ませて、まるで自分のことのように喜んでくれている。
「ありがとう。でも……緊張してしまうわ」
このドレスの素晴らしさだけではない。今日これから起こるかも知れないことを思うと足がすくんでしまいそうだ。
胸に手を当てると、鼓動が早鐘のように鳴っていた。背筋を正したつもりでも、裾の広がるドレスの重みがひときわ現実味を増してゆく。
(何もなければ、それでいい)
「リリアナ。行こうか」
「はい、レオン兄様」
近衛騎士の制服ではなく、エバンス家の紋章をあしらった礼装に身を包むお兄様と共に馬車に乗り込む。
「……大丈夫か、リリアナ」
「はい。準備はできております」
「……そうか。何事もなければいいが」
心なしか、お兄様もどこか緊張しているように思える。同じなのだと思えば、少しだけ私の緊張がほぐれた。
「何かあっても、必ず守ります」
そう決意を口にすると、驚いたような顔をしたお兄様が、「強くなったな」と微笑んでくれた。