36 大切なもの
セドリック殿下は静かにため息をつく。
「兄上がそうやって、人を試すのは昔からですね。……今度ばかりは、本当にやめていただきたい」
「試したつもりはないよ。ただ……確認したかっただけだ。君が選んだ人が、どんな意思を持っているのかをね」
アルフォンス殿下は、柔らかく笑いながらそう言って、ちらりと私へ視線を向けた。その瞳に浮かぶ光は、もうさっきまでの試すような鋭さではない。
優しく、あたたかな色だった。
(まるで、レオン兄様が私を見るときのような……そんな目だわ)
と、そこまで思ったところで、隣から低く静かな声が響いた。
「……その手を、離していただけますか」
一瞬、空気がぴんと張り詰める。
セドリック殿下の声音は冷え切っていて、けれど感情がこもっていた。静かながらも何かを抑えているような、そんな声だった。
そういえば、まだ触れられたままだったわ。
アルフォンス殿下に言われて握手をしたままだ。
私は思わず握っていた手を引こうとしたけれど、アルフォンス殿下の方が微笑を深めて先に手を離した。
「おっと、失礼。これはこれは、嫉妬というやつかな?」
「戯れは結構です」
セドリック殿下はそう言いながら、私の手をそっと取る。手袋越しのその手は冷たくはなく、むしろ指先が微かに震えているようにも思えた。
「やれやれ、やっぱり本気なんだね、君は」
アルフォンス殿下はセドリック殿下の反応を楽しんでいるように見える。
けれどその目には、からかいだけではない、兄としての本気の安堵が宿っていた。
「安心したよ。……本当に、いい子を見つけたんだな」
その一言に、セドリック殿下は答えず、ただ静かに私の手を握る力を強める。
どうしたのだろう。
「そうだ、リリアナ嬢」
ふいに、アルフォンス殿下が私の名を呼んだ。声にとげはなく、けれどその響きには何かを打ち明けるような誠実さがあった。
「先ほど、君と握手をしたとき……少し、妙な感覚を覚えなかったかい?」
「え……はい。まるで、心の奥に何かが触れたような……そんな感じがいたしました」
正直に答えると、アルフォンス殿下は微笑みながらうなずいた。
「やっぱり、気づいたか。あれは、私の能力の一端なんだ」
私は思わず目を見張る。隣のセドリック殿下も、視線だけで「話していいのか」と問いかけるように兄であるアルフォンス殿下を見つめていた。
「私の魔法は、言霊に由来するものなんだ。厳密には、相手と言葉を交わし、互いを名で認識すると、その人の本質がわかる」
「……本質……」
「もちろん、常に使えるわけじゃないし、読み取れるのもほんの一部だよ。けれど、直接触れることでさらに深くその心の内を知ることができるんだ。まあ、一部の例外を除いてね」
「直接……触れることで、ですか」
「そう。だから、あのとき握手をお願いしたんだ」
その言葉に、胸の奥が静かに震えた。あの感覚は、やはり魔法だったのだ。
ふと隣を見ると、セドリック殿下がわずかに眉を寄せ、心配そうに兄を見ていた。口を開きかけて、けれど何も言わずに、じっと。
そんな弟の様子に気づいたのだろう。アルフォンス殿下はすっと片目を細め、いたずらっぽく笑った。
「大丈夫。リリアナ嬢は、この能力について周囲に吹聴するような子ではないだろう?」
その口調は軽やかだったけれど、そこにある信頼は本物だった。
私は自然と口元を引き結び、深く頷いた。
「はい。たとえどれほど驚いても、そのような無礼は決していたしません」
「ふふ、それなら安心だ」
どこか微笑ましそうに言うアルフォンス殿下の横顔は、まるで遠い未来を見据えているような穏やかさに満ちていた。
けれど、その穏やかさを打ち消すように、セドリック殿下が静かに口を開く。
「兄上の能力がいかに厄介か、俺はよく知っています。あまり人に触れすぎないようにと、何度も申し上げたはずです」
「それは忠告として受け取っているよ、セドリック。確かに反動もあるのは事実だが、今回は例外だ。お前の護衛に一度会ってみたいと前に言っただろう?」
「それは……そうですが」
兄弟でそんな会話があったらしいことに驚いていると、アルフォンス殿下はそんな私たちの様子を愉快そうに眺めたあと、すっと一歩下がった。
「セドリック。君が選んだ道を、私は否定しない。ただ、忘れないでくれ。孤独を盾にする必要は、もうないんだよ」
その言葉に、セドリック殿下は目を伏せた。
「……それは、兄上が言うようにうまくはいきません」
「かもしれない。けれど、隣に誰かがいるなら……少しは楽になるだろう? 大切なものは守り通すんだよ」
そう言って、アルフォンス殿下は背を向けた。
「では、私はそろそろ失礼しよう。……ああ、リリアナ嬢。君の心の色は空気のように澄んでいたよ。どうかそのままでいてくれ」
風のように軽やかに言って、アルフォンス殿下はその場を去ろうとする。
「兄上」
セドリック殿下が呼び止めた。
けれどアルフォンス殿下は、振り返ることなく片手をひらりと上げるだけだ。
それはどこか軽やかで、けれど確かに、兄弟ならではの信頼の証にも思える。
彼の足音が遠ざかるにつれて、庭に静寂が戻ってくる。
私はそっと胸に手を当て、小さく息を吐いた。
「……先程、兄の護衛騎士たちに回収されていくバークレー伯爵子息を見かけた」
隣から聞こえた低く落ち着いた声に、私は顔を上げる。
そういえば、すっかりエドワード様の気配がないからどうしたものかと思っていた。
どうやらアルフォンス殿下のお付きの方々が拾ってくださったらしい。
「はい! 今回はしっかり平手打ちしました! すっきりです」
間髪入れずに答えると、セドリック殿下の目がほんの少し見開かれた。
「そうか。平手打ちか」
「さすがにエリオット殿下のあの魔道具をぶつけるのは危険な気がして。力いっぱいぶちました」
「そうか、さすがはリリアナだ」
セドリック殿下の張り詰めたような顔が緩み、笑みがこぼれる。
その横顔は、どこか晴れやかで、これまで見た中でいちばん自然だった気がする。
私もつられるように、ほっとした笑みを浮かべる。
(大切なものを、守る。私も)
アルフォンス殿下に告げられた言葉を、胸に静かに抱きながら。
二人で並んで歩き出した庭の道には、初夏の光がやさしく降り注いでいた。
*
それから、エドワード様は“体調不良のためしばらく領地で療養する”という名目で、王都から姿を消した。
レオンお兄様がこっそり教えてくれた話によれば、それは実質的な王都追放。社交界でもすっかり笑いものになり、顔を出せる場所など残されていないのだという。
加えて、バークレー伯爵家には『今後二年間の登城禁止』という重い処分が下された。
形式上は息子の不始末への自粛という形だが、実質的には王族からの冷遇通告。王城でのあらゆる儀礼や評議の席から締め出され、家の影響力も目に見えて低下していくらしい。
『それにしても、城の警備ってやっぱり案外ゆるいよね〜? 侵入ゆるしすぎ』
事情を知ったエリオット殿下がそんな風にのんびり言ったとき、私とセドリック殿下は大きく頷いたのだった。