35 王太子アルフォンス
誰もいないはずの庭園で、私はそっと息を詰める。
確かに誰かが笑った。
けれど、魔力の気配も足音も何ひとつ感じられない。
「ふむ。いい魔力だね。弟たちの目に狂いなし、というわけかな?」
ふいに、後ろから声がした。
驚いて振り返ると、そこには一人の青年が立っていた。
日の光を受けて輝く金の髪、淡い翠の瞳。優雅な身のこなしと、その顔に浮かぶ愉快げな笑み——
(この方は……)
ウィンフォード王国第一王子である、アルフォンス殿下だとすぐに分かった。
王妃エレオノーラ様のご子息で、次期国王の最有力候補と噂される人物である。
政務においても軍務においても手腕を発揮し、若くしてすでに重臣たちの信頼を集めている。お茶会でも、夫人たちはアルフォンス殿下の治世になることは間違いないとよく言っていた。……その御身に不幸がなければ、とも。
「君が弟の侍女だね。ようやくこうして対面できた。はは、とんでもない場面だったけれど」
その声音は、どこか含みを帯びていて。
まるで、すでに私のことをよく知っているかのようだった。
「まずは自己紹介でもしようかな。アルフォンス・ウィンフォードだ。こんな形での挨拶になってしまって、すまないね」
私は落ち着いてスカートの端をつまみ、膝を折って丁寧に礼をとる。
「初めてお目にかかります。エバンス伯爵家が長女、リリアナと申します。セドリック殿下の護衛兼侍女を務めております」
顔を上げると、アルフォンス殿下は興味深そうに私を見つめている。
「どうしてここに、と言いたげな顔だね」
「! ……はい。まだ会議は終わっていないかと思いまして」
その言葉に、思わず息をのむ。
言葉にしようか迷っていた、ほんの一瞬の思考をぴたりと言い当てられた気がして、背筋にひやりとしたものが走る。
アルフォンス殿下は、何もかも分かっているかのように穏やかに微笑んでいた。
「そろそろ休憩が必要だと思ってね。気晴らしに外へ出たんだよ。そしたら、君がちょうど美しい平手打ちを決めてるところだったからね、つい見惚れてしまった」
「それは、お見苦しいものをお見せいたしました……!」
「いや、いいものを見せてもらった。エドワード・バークレー伯爵子息だったかな? 伯爵も心配しているし、彼も心を入れ替えるといいのだが」
アルフォンス殿下は顎をさすりながら鷹揚にそんな言葉を述べる。
「リリアナ嬢は、今日は空気にはならなかったんだね?」
アルフォンス殿下の柔らかな声に、私は思わずまばたきをした。
(やはり、私のことを知っていらっしゃるのだわ)
これまでリリアナが空気魔法を使う場面に、アルフォンス殿下が同席したことはない。なにより、これを知っているのはエバンス家と魔塔の一部、そしてセドリック殿下がただけのはず。
動揺の色を悟られまいと、私は意識して表情を整える。落ち着いて、淑女の仮面をかぶりなおすように。
にっこりと微笑み、私は静かに言葉を返した。
「殿下のようなお方の前では、空気になどなれませんもの」
「おや。私もぜひ見たいのだけどねえ」
「うふふふ」
「ははは。なるほど、噂通り興味深い子だね」
まるで私の心の奥まで見透かしてくるような視線。なのに不思議と、圧迫感よりも観察するような穏やかさを感じるのはどうしてだろう。
「安心して。君に危害を加えるつもりなんてない。むしろ君のような人間が、あの弟のそばにいてくれてよかったと、心から思っている」
その声には、まるで兄が弟を気遣うような温かさと、同時に鋭い洞察が含まれていた。
「ありがとうございます、殿下」
そう返しながらも、私は自然と身構えていた。どこか居心地が悪く、探られているような感覚が拭えない。
そんな私を尻目に、アルフォンス殿下はふっと目を細めた。
「……やっぱり、とても面白い。君と直接会って、どうしても確かめてみたかったんだ」
「確かめる……とは?」
「嘘や見栄ではなく、君の意思で弟の隣に立つ覚悟があるのか」
そう言って、彼はゆっくりと私の正面に立つ。魔力の揺らぎが、風のように一瞬漂った。
(この感じ……やはり、殿下も何かの能力をお持ちなのだわ)
魔力の気配が淡く、だが確実に纏われている。まるでそれ自体が呼吸をしているような、精密で自然な気の巡り方だった。
「私もね、魔法の加護を授かった身なんだ。……けれど、私の力は少々厄介でね。使うべきときだけに限っている。今回も、その“とき”だった」
言葉を濁しながらも、彼の瞳には確信があった。やはり、何かを感じ取られたのだ。
「君とセドリック、そしてエリオット。あの二人は幼いころから特別だった。……もっとも、最近はすっかり距離を置かれてしまっているけれどね」
アルフォンス殿下は少し寂しそうに笑った。
「それでも、私は彼らが赤ん坊のころから見てきた。セドリックは、あの冷たさの奥にとても美しい心を持っている。エリオットは誰よりも人を信じたがる子なんだよ」
語る言葉には、一人の兄としての愛情が滲んでいた。だからこそ、私には伝わってくる。
(この人は、本当に……二人を心配しているんだ)
「だから、どうか。君にはこれからも、あの弟の隣に立っていてほしい。彼が大切なものを見失わないように、そして……大切なものを守れるように」
その言葉は、まるで未来を託すような重みがあった。
「ねえ、リリアナ嬢。最後に、ひとつお願いしてもいいかな?」
彼はふと手袋の片方を外すと、すっと右手を差し出してきた。
「よかったら、握手をしてくれないか。……もちろん、無理強いはしないよ」
突然の申し出に、私は少しだけ戸惑った。
けれど、断る理由はない様に思えた。むしろ、そうした方がいいとまで。
「はい、わかりました」
私も手袋を外し、そっとその手に自分の手を重ねる。
ぴたりと肌が触れた瞬間、空気がふっと変わったような気がした。
(あ……この感覚、もしかして——)
何かが心の奥底に滑り込むような、けれど拒絶ではなく、穏やかに受け止めてくれるような気配。アルフォンス殿下は数秒、じっと私の瞳を見つめたあと、ふっと目を細めて笑った。
「——うん。納得した」
その笑顔は、試すようなものではなく、どこまでも穏やかで、兄としての安堵すら含んでいた。
「ありがとう、リリアナ嬢」
そのときだった。
「兄上。会議を抜け出して、何をしているのですか」
冷えた声が、庭の入口から響く。
振り向けば、セドリック殿下がゆっくりと歩いてくるところだった。
会議が終わったばかりなのだろう。整った姿のまま、鋭い視線でアルフォンス殿下を見つめている。
けれどアルフォンス殿下は少しも動じず、ただ肩をすくめて笑った。
「おかえり、セドリック。少しだけ、君の大切な人を借りていた」